はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵4回目-1

2013-11-05 09:19:12 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              41番目(43番) 宝泰寺
  

 百地蔵の4回目は先ず静岡駅を出発し、東海道線沿いの北側を草薙方面に進む。そして東静岡駅付近で東海
道線を渡り、今度は線路の南側を行く。草薙に入ったら日本平の山裾を静岡に向かって、所謂静岡市の駅南地
区の寺を廻り、静岡駅で再度駅の北側に出る。今度は朝と逆方向の西に向かい、前回廻らなかった寺に寄って
浅間神社に出る。次に谷津山を目指して山の北側を歩く。最後はまた線路を渡り日本平の山裾の寺に寄ってから
草薙駅に帰る。アー! 書くだけで疲れてしまう。よくこんなコースを考え付くものだと自分でも感心してしまった。
ただ、今回はの距離は予定では30km程度なので、前回より10km以上も少ない。それは良いのだが廻る地蔵の
数が30ヶ所もある。1ヶ所10分とすると、これだけで5時間掛かってしまう。エー5時間かー!
30kmなら少なく見ても6時間。合わせて11時間。何とかなるといえば何とかなる時間だが、途中で迷ったりすると
前回と同じように最後は暗くなってしまう。それは避けたいので極力札所での時間を少なくしなければ。

 静岡駅を出る時は小雨が降っていて、傘をさしての出発になってしまった。天気予報は晴で降水確率は30%。
そのうち止むだろう。
 最初の寺は静岡駅前にある松坂屋近くの宝泰寺。それを何を勘違いしたのか、新静岡駅の方まで歩いて行って
しまった。無駄な時間は使いたくないと思っていながら、5分も掛からず行ける所を15分も掛かってしまった。

 ようやく宝泰寺の前に来て驚いた。イエ宝泰寺に驚いたのではなく、寺の前にあったレストランに。
まるでヨーロッパの中世の城のような建物だった。静岡では長く仕事をしていたが、駅前にこんな建物があるなんて
初めて知った。

 
                  レストラン                    宝泰寺の山門
      宝泰寺の地図

 宝泰寺は江戸時代朝鮮通信使の休憩所に充てられた寺で、通信使に「東海一綺麗なお寺」褒められたらしい。
今も公園のように整備されている境内の所々に、わらべ地蔵が置かれているが、これは百地蔵ではない。
他に蔵像は無いかと境内を見回すと、池の中に観音像と地蔵像が乗ったアーチがあった。それと古い六地蔵も。
ヨシ!これを百地蔵として次に行こう。

 
                     アーチの上の地蔵像                     六地蔵

              42番目(42番) 華陽院(家康の祖母)
 42番目にお詣りする華陽院は百地蔵の順路でも42番だった。しかも「死に」番で悪い事がなければよいのだが。
 不吉な予感にかかわらず雨は止み、華陽院も静岡鉄道日吉駅の南側にあって迷わず辿り着く事が出来た。
 華陽院は徳川家康の母方の祖母、源応尼の菩提寺で、竹千代(家康)が人質で駿府に暮らすとき、養育係として
岡崎から来て華陽院の近くに住んでいた。竹千代は人質として寂しい生活を余儀なくされていたが、祖母源応尼の
親身の愛情を注がれ心を和ませられたという。 源応尼は永禄3年に駿府で亡くなるが、その時に家康は義元の
上洛軍として桶狭間に向かっていた。その直後に今川義元が桶狭間で戦死すると、家康は戦場から自国の岡崎に
帰国し独立したため、敵国となった駿府に戻ることが出来ず、祖母の葬儀にも参加できなかった。
源応尼が亡くなってから50年後、家康は法要を営み、源応尼の法名「華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼」から、寺の
名を「玉桂山華陽院府中寺」と改めている。それが現在の華陽院である。

 境内の中に新しい量産型の六地蔵があったが、とても百地蔵とは思えない。だが他には地蔵像は見当たらず
百地蔵の板も無い。HPにもこの寺こについて何の記述も無いので、この新しい六地蔵は百地蔵とするしかないな。
墓地の中には家康の祖母の源応尼の墓があり、その常夜燈の笠には葵の御紋が彫られていた。
また、その墓の隣には家康の五女市姫の墓もあった。

 
                     華陽院                                源応尼と市姫の墓
      華陽院の地図

              43番目(37番) 清水寺(宗派)
 清水寺は谷津山の西の袂にあり、過去何回も来ていたので迷わずに到着。
清水寺という寺号は人気があり京都の「音羽山清水寺」を筆頭に各地にあるようだ。静岡県内にも、ここと藤枝に
あるが、どちらも京都と同じ「音羽山清水寺」だ。それなら宗派も同じだろうと思うのだが、藤枝と静岡は真言宗で
京都は法相宗と余り聞いた事のない宗派だった。
静岡の清水寺が京都と同じ名前した理由として、静岡市が建てた案内板には 「開山第1世道因大僧正が京都
清水寺から招かれ、故郷を偲んで名付けた」
とある。なのに法相宗ではなく真言宗だ。
それが百地蔵のHPには「開山は京都の仁和寺から招かれた尊寿院道因大僧正。山号と寺号は、ここの風景が
京都の清水寺に似ていた事から名付けられた」
となっている。因みに仁和寺は真言宗だ。
サーどちらが正しいのでしょうか、住職に聞いてみたいですね。

 さらに清水寺の宗派について、こんな説がウィキペディアに載っていた。
「9代今川氏当主氏輝は、わずか14歳と若年であったため、母親の寿桂尼が補佐役となった。その後、氏輝が
24歳で死亡したときに、清水寺の開創を遺命したとされる。
「今川記」によれば、氏輝は臨済宗を信仰していたのに何故遺命が真言宗なったのか謎であるが、寿桂尼が
京都出身であり、観音信仰を持っていたからである可能性がある」

そういえば清水寺は、今川時代に選定された「駿河一国33観音霊場」の札所だった。

 清水寺には前回廻った国分寺に安置されていた、丈六の鉄製釈迦像の頭部が祀られているはずだ。
これは武田軍が駿府に攻めてきた時に、胴体部分を武器にするために鋳潰し、頭部だけを池に投げ捨てた
ものを、清水寺に祀ったといわれている。見てみたいが露地に置いて有る分けもないので、諦めるしかないな。

 ところで百地蔵はというと、寺に入った石段下の右側にあった。この地蔵は正徳3年(1713)に建立され、左手に
宝珠をもち、右手はかつて錫杖を持っていた様な手の形だった。
「石地蔵」と呼ばれて、今でも参拝されている地蔵だが、何のご利益があるのか分からなかった。

 
                     清水寺                                地蔵像
      清水寺の地図

最新の画像もっと見る

コメントを投稿