はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国55番法山寺

2015-11-25 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35>  番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                             55番法山寺(間違っていた朱印)
                    
                                        山の神

 大御堂寺を参詣中に雨はあがったが、用心のため傘を手に持って歩いていた。それも途中から明るくなってい来たので
ザックにしまい込んだ。どうかもう降らないでくださいと拝みたいくらいだ。

 55番法山寺(ほうさんじ)は名鉄野間駅を左に見ながら東に行った山の付根にあった。
藪の中の札所で蚊がブンブン飛んでいて、3ヶ所も刺されてしまった。
寺の入口に 「やまのかみ大明神」 の白い幟が立った社があったが謂れなどは分からなかった。
それにしても知多には幟旗が多いとあらためて感じる。
 
 
                  弘法堂                                    弘法堂内部

 弘法堂を覗き込んだが特に変わった物はない。右手前に人が座ってお辞儀をしているように見えるのは木魚です。

        
                    本堂(湯殿薬師)                               鐘 楼

 一見お堂に見える建物に 「瑠璃光」 の扁額と 「御湯殿薬師」 の看板も立ある。それに法山寺のご本尊は “湯殿薬師” なので
ここが本堂なのだろう。
寺の案内版によると、法山寺の山号は 「曇華山(どんげざん)」 で、これは行基菩薩がこの地を訪れた時に山上いっぱいに咲く
優雲花(うどんげ)の花を(3千年に一度咲くといわれている)見て、衆生済度を願い薬師如来を刻んでお堂に奉安したのが
法山寺の始まりとある。 因みに ”どんげの花” とはカンナ科の多年草とあった。
鐘楼にも 「源義朝公霊」 とあるのを見ると、法山寺も源義朝と因縁があるようだが理由は分からなかった。

 納経所で朱印を貰うとき住職が 「うちの場所にもう朱印が押してあるので重ねて押しときますよ」 と言う。
そんな馬鹿な!と思い、納経帳を見ると、確かに55番の所に朱印が押してある。
嫌になるなぁと、55番に押してある朱印を確認すると 「54番 海潮寺」 となっていた。
海潮寺?海潮寺? アッ思いだした。海潮寺は知多四国遍路初日の日に、疲れ果てて辿り着いた札所だ。あの時納経所には
人がいず、納経印を自分で押したのだった。間違いないようにと確認したのに間違ってしまったのだ。
あの日は家に戻ってから熱中症気味でダウンしてしまったが、その時から体調がおかしかったのだろう。

あーあ。これで知多四国霊場の納経帳は不完全な物になってしまった。頭に来るが自分でやった事なので諦めるしかない。
いつか知多半島に来た時に押して貰おうかと思うが、知多半島に来るとはまずないだろう。 

 法山寺と源義朝の関係が分かったのは家に戻ってからだった。
法山寺の近くに 「源義朝公最期の地 湯殿跡」「千人塚」 にあるらしい。
湯殿跡は、平治の乱に敗れ家臣を頼ってこの地に落ちのびてきた義朝が、法山寺の薬師如来に参詣したあと、近くの湯殿で
入浴中に家臣に謀殺殺された場所。
千人塚とは、義朝を殺害した長田一族が、義家の家来との戦いで討死にした死者を祀った塚があるそうだ。
千人塚はともかく湯殿跡は見てみたかった。義家が 「我れに木太刀の一本なりともあれば」 と無念の叫びをあげた場所なのだ。

 考えてみると法山寺の昔の住職は機転がきいていたと思う。行基が刻んだ薬師如来を “湯殿薬師” と改名するのだから。
だが惜しむらくは義家の墓なり塚を寺に築かなかったので、以後の人気は大御堂寺に奪われてしまったのだ。
当時義家は謀反人で、源氏の棟梁と云えども天皇の勅願寺の大御堂寺に墓を造る事はできなかったはずだ。
その時密かに法山寺で墓を引き受けていれば、その後は頼朝の庇護のもと大寺に変身できたものをと、私の妄想的歴史観は
訴えている。

                                50番大御堂寺から55番法山寺への道

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