はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道5-5

2011-04-15 09:56:55 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」5回目-5  2011/3/30

袋井駅 ― 袋井宿 ― 木原一里塚 ― 見付宿 ― 宮之下一里塚 ― 天竜渡船場
 6:00      6:10       9:42       7:45      9:16        10:08
         0.6k       2.9k       8.5k      13.4k        17.1k
 
― 中野町 ― 浜松宿 ― 八丁畷 ― 春日神社 ― 舞阪宿 ― 新居町駅
  11:15     12:42      13:38     15:13     15:50    16:43
  21.1k     28.7k      31.1k     4.05k     42.9k    47.6k

                       舞阪宿へ(堀江県)



橋の袂に「鎧橋」の案内板があった。この橋に徳川家康が鎧でも掛けたのかと思い呼んで見ると
「平安時代末期に比叡山の僧兵が地元の鴨江寺を攻めてきて、ここで戦った」とある。
待てよ比叡山の僧兵は確か見付(磐田)の山奥にある岩村廃寺にも攻めてきたはずだ。家に帰り
調べてみると遠江33観音の札所の前身の岩室廃寺を1546年に叡山の僧兵が攻めてきて全山を
焼き滅ぼしている。理由は「本末の詮議の争い」となっていた。
1546年では室町時代で平安時代末期ではない。若しかして岩村廃寺の戦いと関連があるのかと
思った勘は見事に外れだった。
ちなみに鴨江寺とは平安時代は300余の末寺を持つ真言宗の大寺だったとある。
待てよ、岩村廃寺も同じく真言宗。比叡山延暦寺は天台宗で最澄が開祖だ。すると天台宗の開祖
空海とは仲が悪かったはずだ。それで二度も遠州に攻めてきたのか。だがそれなら高野山の僧兵
は何をしていたのか、援軍は出さなかったのか? 勝手な想像が湧き出してしまった。

この辺りの街道のことを「八丁畷(なわて)」と言うらしい。真っ直ぐな道が続いているから
らしいが、今朝歩いた袋井の古戦場は「木原畷」と呼んでいた。だがそこはこの様に真っ直ぐな
道は無かった。
辞書で調べてみると畷(なわて)とは「田の間の道。あぜ道」と「まっすぐな長い道」といった
意味があった。今日は、たまたま二つの畷(なわて)を経験したと言うことだろう。

62(66)里目の一里塚があった。案内板には一里塚の名前が書いてないが若林の一里塚という
らしい。61里目の馬込の一里塚は探せなかったので、その前の安間の一里塚からの距離を見ると
丁度10kになっていた。2区間の一里塚の間の距離が10kとは長すぎる、宿場が近くにあるわけ
ではないのに何故だろう。GPSの距離が間違いなのか、一里塚が遠過ぎるのか、それとも歩いた
ルートが間違っていたのか。



若林の一里塚を過ぎて暫く行くと、街道を挟んで右と左にお堂がある「二つ御堂」の前に出る。
二つお堂とは、平安時代末期に京に居た奥州平泉の藤原秀衛を追って、愛妾がこの地を通った
とき、秀衛の死を聞いた。その秀衛の菩提を弔う為に建てたお堂だったが、自身もここで死んで
しまった。その御堂が道の右手にある北堂だったという。
だがその死の連絡は誤報で、その後ここを通った秀衛が、その話を聞いて感激して建てたのが
道の左側にある南堂だそうです。

諏訪神社が過ぎた辺りに浜松領界石や堀江領界石跡があるらしいが見当たらなかった。
掛川藩と浜松藩の領界石も分らなかった。注意深く歩いている積りでも疲れからか見落としが
多くなってしまうようだ。

ところで堀江藩という名前は余り聞いた事がない。しかも堀江は藩だけではなく、明治維新の
廃藩置県では堀江県にもなった云う。早速調べてみると面白い話があった。
堀江県の元となった堀江領は、浜名湖の舘山寺に拠点を置く大沢氏の所領地だった。
永禄12年(1569)徳川家康の遠州侵攻時には、堀江城は今川方として家康に頑強に抵抗した。
手を焼いた家康は大沢氏に本領安堵の誓書を与え和睦を結んだ。その後大沢氏は表高3500石、
実高5500石の高家筆頭として幕末になるのだが、ここから話は面白くなる。

1万石以下は大名になれないので、維新の混乱期に大沢氏は浜名湖を埋め立てたとして1万6石と
虚偽の申告をした。混乱していた新政府は調査もせずに大沢氏の家格を華族に昇格し大名に取り
立て堀江藩が誕生した。その結果明治2年(1869年)の版籍奉還で大沢氏は堀江藩知事に。
明治4年4月の廃藩置県では堀江県となり、大沢氏は堀江県知事に任じられる。
しかし、申告した開墾領地はいまだ浜名湖上であることが発覚。堀江県知事大沢基寿は士族への
格下げ及び禁錮1年の処罰受けた。
そして明治4年11月の新県設置によって堀江県は浜松県に合併されてしまい、浜名湖北部の
超ミニ藩、超ミニ県も超短い幕を閉じた。

だが一つ私には腑に落ちない事がある(また始まった)。
明治4年7月の廃藩置県の時点では、現在の静岡県には韮山県(伊豆)と静岡県(駿河・遠江)、
堀江県(浜名湖北部)の3県があった。
同年11月遠州に新たに浜松県を誕生させ堀江県を廃止したとある。不思議なのは浜松のような
大きな藩を静岡と一緒にさせながら、誕生したばかりの小さな堀江藩がなぜ単独で堀江県に
なれたかだ。高家筆頭の大沢氏の権力それほど強かったとのか。
ならば虚偽申告がばれても、禁固1年の実刑を受けることもなかったのではないかと思う。
若しかして出世城の浜松藩は事の他、薩長の新政府役人に嫌われていたのではないか?

そうそう、その後の静岡県は明治9年に足柄県廃止に伴い旧伊豆の国が静岡県と合併し、
同年8月に浜松県と静岡県が合併したことにより、現在の静岡県が生まれました



日本橋から63(67)里目の篠原の一里塚跡がある。標識はあるのだが、この標識自体が古く
「一里塚標識跡」と名付けたいくらいだ。読む気にもならなくて写真1枚でパス。

この辺りに道の左側に秋葉山の常夜灯がよく目につく。堂の中を覗いてみる中には石の常夜灯が
立っていた。これこそ鞘堂と思うのだが、中に石灯籠の無いお堂を何故鞘堂と云うのか分らない。
地元では鞘堂も常夜灯も深く考えず適宜呼んでいるのだろうか。
それにしても丈夫な石造りの灯篭を、何故木製の立派な鞘堂で保護するのだろう。しかも石灯籠に
灯を燈しても暗いのに、鞘堂に入れたら更に暗くなる。これで常夜灯の役目は果たせたのだろうか。
もっとも常夜灯は足元を照らすというより、常夜灯の場所を知らせるのが目的のようだから、薄暗く
ても、その存在が分ればよかったのだろう。



春日神社の境内で休憩をする。この境内にも蛙の置物が。袋井の許禰(こね)神社には6匹の蛙で
「○○を六蛙(迎える)」だった。ではこの神社には2匹の蛙がいたが、果たしてどういう意味か?
答えは書いてなかったが「○○二蛙(に帰る)」ではないかな。マーそういう事にしておこう。

この神社には珍しい狛犬が、いや犬でなく鹿だったので狛鹿があった。奈良の春日神社には鹿が
野放しになっているのは知っているが、矢張り狛犬ならぬ狛鹿か鎮座しているのか?



舞阪の松並木は約700mにわたって330本ほどの松が並んだ見事な並木道だった。並木の途中に
バス停や信号機のある交差点もあり、今でも一般道路としての役目も担っている道でもある。
余り街道の保存に力を入れていない浜松市だが、この松並木は是非後世にも伝えていって
欲しい。100年後200年後にも街道歩きをする人の憩いの場所にしていてほしい。

松並木が終った所に太鼓を叩いている子供の像がある。昔地引網にかかった子供が
「海が荒れるときは太鼓を叩いて知らせますので、どうか助けてください」と命乞いをしたので
漁師は子供を海に帰してやった。それ以後この地には海が荒れる前に太鼓の音が聞こえてくる
ようになったとさ。小僧さんの名前は「波小僧」だった。
静岡県は東海地震がいつ起きてもおかしくないと言われてから久しい。是非津波の前には
波小僧さんは太鼓を叩いて知らせてはほしい。



舞阪宿の見附跡には、まだ石垣が残っている。横に立っている案内板には
「この石垣は舞阪宿の東の入口にある見附で見張り所の役目を果たしていた」とある。
石垣で敵を防いだというのでなく、見附の印として石垣を組んだのだろう。それにしても
この舞阪宿には枡形が見当たらない。これでは敵が勢い良く宿場の中に入ってしまう。

更に64(68)里目の舞阪の一里塚は見附の内側にあった。これも一里塚は宿場の中に作らない
と書いてあった場所(沼津)とも違う。きっと小さな宿場は命令を融通無碍に解釈してもお咎めは
なかったのだろう。

            

舞阪の脇本陣は現存していて無料公開されている。当初見学をする予定だったが何故か舞阪に
着いたのは、予定より1時間も遅れて4時近くになっていた。公開時間は4時までなので諦める
しかない。未練がましく玄関間から中を覗いていると、係りの女性(お婆さん)が気さくに声を掛けて
パンフレットを手渡してくれた。
私は今までこの脇本陣は昔の建物がそのまま残っていた物と思っていたが、どうやら違うようだ。
パンフレットによれば「上段の間があった書院棟が残されていたので、建物を再現した」とある。
それではこの玄関は再現された新しい建物なのだろう。
別にそれでどうというわけではないが、フーンそうなんだといった感じになった。
パンフレットを読んで一つ憶えた。本陣は平屋で門、玄関、上段の間がある。
脇本陣は大旅籠を改造した物が多く、そのため2階建てが少なくない。本陣と同様に門、玄関の
両方か、あるいは一方を構えた。また、平常は旅籠を営んでいた」となっていた。
そのため舞阪の脇本陣は唐風な玄関はあるが門が無いのだ。納得。

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