はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道53次 藤沢宿

2012-04-06 11:58:22 | ウォーキング
東海道53次13回目-1

場   所:神奈川県藤沢市・辻堂市・茅ヶ崎市・平塚市.大磯町.二宮町・小田原市
歩行月日:2012/03/19
歩行データ: コースタイム
 藤沢駅-0:15-藤沢宿-3:00-平塚宿-0:40-大磯宿-3:30-小田原宿-0:20-小田原駅駅

 歩行時間:7時間45分 休憩時間:1時間45分 延時間:9時間30分
 出発時間:8時40分  到着時間:18時10分
 歩数:52,440歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:40.0km (GPS距離 43.4km)

藤沢駅~辻堂一里塚
藤沢駅-0:10-遊行寺-0:05-藤沢本陣-0:10-義経首塚-0:45-辻堂一里塚


 電車の時刻を調べるのにいつもはヤフーの路線を使っていたが、次回の東京に行くとき利用する臨時列車ムーライト長良をヤフーで調べてみた。しかし色々条件を変えてもヒットせず、JRのHPの時刻表でやったら一発で出てきた。不安になって今回の藤沢までの時刻を調べ直してみると、やはりヤフーより1本早い電車がヒットした。
一つのソフトに拘らず複数で確認する必要がつくづく分かった。次回からは2ヶ所で確認をしよう。

そしてヤフーより1本早い電車に乗り藤沢駅に8時30分に到着。
今日の行程には随分迷った。何せ残されているのは日本橋から小田原までで、宿場間距離で81.4ある。一見40kmを2回歩けば良さそうに見るが、出発時間のの遅い街道歩きの40km以上となると中々きつくなる。名所も見物せずひたすら歩くだけなら良いが、それでは街道歩きの意味が無い。では3回にすると今度は歩く距離が物足りなくなる。
悩んだ結果今回は藤沢・小田原間の32.3km、最終回は日本橋・藤沢間の49.1kmにした。

 藤沢駅から最初に目指したのは日本橋から12里目にある遊行寺坂の一里塚だった。今回少しでも余計に見ておけば次回が楽になると、遊行寺の前にある坂を上りだしたが止めた。この坂を上って行っても一里塚の標識がある保証はない。今までも地図上には掲載されている一里塚を何回も見つけれない事があった。今回若し見つからなかったら、それこそ無駄足になってしまう。結局坂の入口にある「遊行寺」に入ることにした。

  
  遊行寺山門                          遊行寺本堂

 遊行寺の正式名称は「藤沢山無量光院清浄光寺」という時宗の総本山だった。時宗と言えば確か鎌倉時代に栄えた踊念仏の一派だったはずだ。そう開祖は一遍上人で踊りながら念仏を唱え、お札を配ったといわれている。確か教科書で習ったような気がするが?
それとも江戸時代伊勢神宮のお蔭参りの「ええじゃないか」と踊り狂った話と混同しているのかな。

 遊行寺の境内は中々見るものが多く「敵御方(てきみかた)供養塔」「小栗判官の墓」等があった。敵御方供養塔とは、室町時代の足利鎌倉公方と上杉関東管領の戦の戦死者を敵味方の別なく供養した塚が国の名勝に指定されている。石碑を見てもどうと言う物でもない。こんな石碑が国の指定史跡になるのは、日本人に博愛精神が薄く、そのような行動をとった例が少なかったからなのだろうか。

 小栗判官の墓は遊行寺の中の長生院にあるらしいのだが、長生院はあったが墓は見つけられなかった。代わりに愛人の照子姫の墓を見つけたからマー良しとしよう。次回の日本橋から歩いたときに時間があったら探してみよう。
小栗判官とは
「常陸の小栗城主であった小栗判官は、小栗城が落城し相模へと逃げて来た際に土地の豪族の家に泊まった。その家の娘と良い仲になったため、娘の親が激怒して小栗を半死半生にして上野原に打ち捨てた。そこに通りかかった遊行寺の僧が、寺に連れ帰り看病したが小栗はらい病になってしまった。この病気は熊野詣をして湯の峰温泉のつぼ湯で湯垢離をすれば完治すると聞いた判官は、いざり車で遍路を重ねる。
一方照子姫は小栗の後を追って家を出たが小栗と出会えなかった。
湯の峰に着いた小栗は、つぼ湯で湯治をした結果病は完治し、新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に戻った小栗は相模の豪族を討ち、美濃で下女として働いていた照手姫を見つけ出す。こうして2人はようやく夫婦になることができた」
そうです。

  
  敵御方供養塔                            照子姫の墓

 十何年か前に湯の峰温泉でつぼ湯に入ってきた。名前の通りの壺のように丸い小さな岩風呂だったことを思い出す。この温泉に入ると小栗判官のように美男子になるかと、せっせと顔を洗ったが何故か私には効き目が無かった。元が悪ければ綺麗になりようがないのだろう。
そのときこの小栗判官と照子姫の話を聞いたのだが、すっかり忘れていたのに、ここで「小栗判官と照子姫」の名前を見て突然記憶が蘇ってきた。人の記憶とは不思議なもので、普段は忘れていてもチョットしたきっかけで、記憶の引き出しを開けると、次から次へと湧いてくる。

 遊行寺の境内には他にも、樹齢が三百~七百年いわれ幹回りが6.83mある大イチョウの木や、六地蔵など見所が多かった。だが少々時間をかけすぎてしまった、先を急ごう。

  
  大イチョウ                              六地蔵

 遊行寺の鏑木門から遊行寺橋を渡り東海道にでる。そろそろ藤沢の本陣跡の標識があるはずが見当たらない。東海道の説明には「郵便局を過ぎたラーメン店の近く」とあるが、ラーメン屋はあったが標識は見当たらなかった。仕方ないこのラーメン屋を本陣跡としてデータを取ろう。後で調べてみると私の立っていたの京に向かって左側だったが、本陣は右側だったようだ。

 次は白旗交差点の近くにある「義経の首洗井戸」に寄って行こう。でも案内板はあるのかな?
案の定井戸への標識は見当たらず、またもやウロウロしてしまった。だが交番の横の路地の先に公園のような物が見えるので入って行くと。ピンポンあたりです、そこに義経の首洗井戸と首塚があった。しかし何故義経の首塚が藤沢にあるのだろう。案内板によると
「吾妻鏡によると、奥州でなくなり鎌倉に送られた義経の首は、首実検ののち片瀬の浜に捨てられた。それが潮に乗って境川を遡り、この辺りに漂着したのを里人がすくいあげ、洗い清めた井戸と伝えられている」
吾妻鏡などがで出てきて説得力のある説明だ。さらにこの近くには「白旗神社」もあるというから疑り深い私でも信じたくなる。

 首洗い井戸は、石材で井桁に組まれた立派な井戸枠だったが本物にしては新しすぎか。また首塚は義経のものにしては少々貧弱な感じだった。案内板を信じたい気持ちと、実物を見て疑う気持ちとが交差してしまった。
その公園を出て西の方から振り返ると、首洗い井戸の標識が建っていた。これでは電柱の陰で江戸へ向かう旅人は分かるが、西に向かう人は気づかず通り過ぎてしまうだろう。
次の白旗交差点には白旗神社への標識があったが、すでに首洗い井戸も首塚も見たのでパスしよう。

  
  義経の首洗い井戸                           義経の首塚

 藤沢宿には古い双体の道祖神に白粉を塗った「おしゃれ地蔵」がある。これは近江の草津宿でも紹介したが、ここには藤沢市教育委員会で建てた立派な案内板が建っている。それによると
「女性の願い事なら、何でもかなえてくださり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼回りをする。今でも、お顔から白粉が耐える事がない」とあった。さらに教育委員会らしく
「形態は地蔵でなく、道祖神が妥当であるが、土地に言い伝えを大事にしていきたい」と言いわけしていた。

       
         おしゃれ地蔵

 街道が国道1号と合流した交差点に「大山道標」があった。大山とは丹沢山の東側にある山で、山頂に阿夫利(あふり)神社がある事で知られている。
高校時代丹沢山塊には何度か入ったが、大山には登った事は無い。あの当時は大山は宗教の山で低山と馬鹿にしていて登る気も起きなかったのだ。それが今なら丹沢より大山の方に惹かれるようになってきた。宗教心の芽生えか、それとも体力の衰えか。いやいやただ単なる好奇心の変化だろう。

大山道標の上に不動明王の座像が載っている。更に道標の先にある鳥居の額束には天狗の顔が彫られている。不動明王に天狗とは妙な取り合わせだ。不動明王は仏教で、天狗なら猿田彦の命で神道だろう? ならきっと神仏混淆時代の名残で廃仏毀釈から難を逃れた名残なのか。
調べてみると阿夫利神社の別当寺(神社に附属して建てられた仏教寺院)の大山寺のご本尊が不動明王だった。そして天狗は猿田彦の命ではなく、阿夫利神社の摂社の守り神で、全国八大天狗に数えられた「大山伯耆坊」という天狗だった。

 ただここで腑に落ちないのは案内板に「堂外の道標が初代のもので、万治4年に建てられたものです」と書いてあった事だ。堂外には新しい石に彫られた道標しかなかったのに。 

   
  大山道標                             不動明王       鳥居の天狗

 松並木がチラホラ現れだした所で、今日最初に出合った一里塚は、日本橋から13里目の「辻堂の一里塚」だった。たった1本の杭の標識だが、そんな標識でもあった方が断然嬉しい。歩く張合いも生まれてくるというものだ。江戸時代の旅人も、この一里塚を目標と慰めにして歩いた事だろう。

 稲荷神社の境内に古い石仏と案内板があった。覗いてみると「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られていた。道路脇の石仏で三猿を見るのは初めてだが、これは庚申塚だと案内板があった。それには
「寛永十年の庚申供養塔は総高105cmの蓮辨型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部ヶ所の正面向きに三猿像を載せる手法をとっている」とあるが、何故三猿なのかの説明は無い。調べてみたら私に知識不足で、ネットのフリ-百科事典ウィキペディアには
「庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫るものが多い」とあり、参考写真には藤沢市の庚申塔が載っていた。因みの、ここ稲荷神社の庚申塔は藤沢市の重要文化財に指定されていた。
 
  
 庚申塔                                藤沢・茅ヶ崎の市境

 庚申塔を過ぎ本格的な松並木が始まるところで茅ヶ崎市に入った。   

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