歩行時間:8時間35分 休憩時間:1時間10分 延時間:9時間45分
出発時間:7時45分 到着時間:17時30分
歩 数: 45、662歩 GPS距離:32.1km
行程表(2013-11-30)
焼津駅 0:40> 138農道入口 1:10> 見晴台 0:45> 笛吹段公園 0:40> 富士見峠 0:10> 池の平
0:30> 北のピーク 1:20> 池の平 1:20> 農道出口 2:00> 西焼津駅
一昨年焼津市が「高草山ナイトウォーク30k」の募集をしていたので、30kmに魅力を感じて応募したが、
人数が集まらず中止になった事がある。
高草山の農道は分岐や途中で終点する農道が多く、山道の接続用としては歩いていたが、農道歩きを主体と
しては歩いた事がなかった。それが今年6月の大崩山塊山行の際、時間が余ったので鞍掛峠から簡保の尾根の
中腹を走る農道を、簡保下まで歩いて焼津駅に帰った事がある。その時、農道沿いに大きなモミジの木が何本か
植えられている場所を見つけた。これならこのモミジと農道歩きを併せた歩きを秋にしてみようと思っていた。
農道が30kmもあるとは思えないが、ともかく出発点は簡保の尾根の南の端から、北の端の西尾根下国道1号線
バイパスまでにした。ただ農道は分岐が多いので、事前に農道の概略は調べておいたが、地図に農道の全てが
載っているとも思えない。その時は、その時で現地で判断して、行き止まりになったら戻ればよいし、嫌になったら
山道を下ればいい。と、マー気楽な気持ちで出発した。
簡保の尾根下農道入口
寒い朝で農道開始点に着いた時、温度計は3℃だった。ついこの前の10月には44℃もあったのが今日は40℃も
下がってしまった。寒さは歩き出して体が暖かくなれば何ともないが、辛いのは朝自転車で駅まで行くときだ。
耳や手が寒さで痛くなるってくる。そんな時季が迫ってきている。
海雲寺の手前の農道入口を入ると、今まで平坦だった道が急に傾斜がきつくなる。坂道は辛いが逆に寒い時は
上り坂の方が体が暖まり有りがたいくらいだ。入口から5分ほどで期待していたモミジの並木に着いた。
しかしここのモミジはどれもこれも黄葉ばかりで赤い葉が無い。
今年は小国神社で綺麗な紅葉を2回も見ているので目が肥えてきたのだろうか。でも矢張り紅が無い淋しい。
農道脇のモミジの黄葉
少し高度が上がると焼津の町が見えてきた。JR東海道線、新幹線、国道150号それに東名高速が走っている。
山の斜面位はミカンが栽培されていて、丁度収穫時期を迎えているのか農道にトラックが停まっている。
ミカンは如何にも取ってくれと言わんばかりに、農道の方に枝を伸ばし私を誘惑する。こういう誘惑には弱い
私には中々厳しい道だ。どうかミカン畑には農家の人がいますように------
道端で作業をしていた人と挨拶を交わし少し話をした。その中でこんな話があった。
「この下の小浜の衆は、海岸ばたの元小浜から移って来た衆で、今も元小浜に地所を持っている人がいる。
中には海岸や島の所有者もいる。だけど前からは海が近づき、後ろは崖崩れで土地が狭くなったので、こっちに
移った来た衆だ」 これはタイミングが良いと、前から気になっていた事を聞いてみた。
「元小浜では塩を作っていたのですか?」
「おりゃ野秋だから、他所のの事は知らないが、多分作っていたと思うよ」 だって。
ついでに野秋の事を聞くと
「野秋は古くからあったで、須賀神社の所が1番地で北の方に広がっている。南隣の小浜は、元小浜から
移ってくる前は、人は住んでいなかったらしいよ」 自分のには誇りを持っているようだ。
私の知っている須賀神社と野秋の説明を追加するなら、須賀神社は新幹線のトンネルの所にあり、神社の
祭神はその名の通り、須佐之男命(すさのおのみこと)だが、神社の縁起書には
「日本武尊がこの地において野火の難にあわれたため、かっての村名を野焼村といい、社号を野焼神社と称し
たいう。実際、諸郡神階帳に「正四位下 野焼神社」とある。
しかし疫病が流行し、民家もたびたび焼失したため、焼という字を改めて村名を野秋とし現在の社号にした」
と伝説と理解すれば面白い話を書いてある。
更にこの話を私の妄想的歴史観で脚色するなら、野秋の元の名称の野焼は日本武尊の伝承ではなく、焼津の
語源と同じように(これも私の妄想的歴史観だが、焼津は海辺(津)近くに天然ガスや熱湯の噴出していて、
葦などの植物が焼けた状態だった事から焼津のが地名になったと思う。ただし焼津市HP等は日本武尊説を
採っている)この野原の近くに、天然ガスや温泉が湧きだしていた事から付けられた地名ではないかと想像
している。
若しこの私の妄想が当たっているなら、野秋で温泉の試掘をすれば熱湯が噴出してくるかもしれない。
誰か挑戦してくれないかな。
眼下に焼津市街 農道脇のミカン畑
砂張屋の道標への分岐の辺りから農道の傾斜は増してくる。兎沢古墳の分岐を過ぎて最後の一踏ん張りを
してようやくこの辺りの最高点に着いた。ここから先は当分下りか平らな道で歩きは楽になる。
石部峠への分岐、花沢の里の水車小屋への分岐を過ぎ、日本坂峠の分岐に来ると、何やら貼紙がしてある。
「大崩ハイキングコースの通行禁止につて 大崩海岸の崩壊が続いているため簡保の宿の入口~砂張屋
孫右衛門道標は現在通行できません。 平成25年10月25日 焼津市役所」と書いてある。
ウーン良かった。来週は簡保下から石部峠を下って鉄道遺跡に行く予定だったので助かった。
日本坂峠の分岐の次は鞍掛峠、廻沢峠の分岐と続く。そして見晴台に到着。ここまで約2時間かかっている。
この見晴台には百地蔵で紹介した「駿河国分尼寺」の事が書かれた案内板が建っているので、それを確認する。
「高草山法華寺は、法華減罪の駿河国分尼寺として建立されたとされる」ウーン間違いない確かに書いてある。
ただこの見晴台の場所が法華寺の何だったかは書いてない。
この見晴台については以前から疑問を感じていたが、今回さらに疑問が増してしまった。この見晴台の場所を
ネットの地図で見ると、周りは花沢地区なのに、ここだけ野秋の飛地になっている。一体何故なのだろう?
ここから野秋の人達が海の状態を眺めた? ウーン私の妄想力を持っても理解不明な事だ。
それにしてもこの見晴台の事を今までけなしていたが、今回の農道歩きには丁度良い休憩場所になった。
一応トイレもあるし座る所もある。眺めは--------
見晴台を出て鞍掛峠からの農道に合流する。更に直進すると焼津辺の道の石脇口と、高草山のへの分岐に出る。
距離は石脇口を廻った方のが長くなるが、その道は時々歩いている。一方この分岐から高草に向かう農道は余り
歩く事がないので久し振りに歩く事にした。
今まで下り勾配だった道が急に傾斜を増してきた。景色も簡保の尾根や焼津の町も見えてくる。分岐から
25分で再度石脇からの農道に合流。石脇経由なら1時間程度は掛かるだろうから大分程短くなってしまった。
左に焼津港や志太平野を眺めながら農道を歩く。この景色を見ると必ず思いだすのが、東京都知事になった
猪瀬直樹の事だ。彼が道路公団民営化委員のとき、第2東名は建設中だったが、彼の「無駄な高速道路」の
追及にあい、その完成が大分遅れてしまった。
だがその頃から海に近いここ焼津や薩埵峠の東名高速を見ている私には決して無駄とは思えなかった。
その頃も東海沖地震が叫ばれており、津波の恐れの無い場所に代替の高速道路は必要だと感じていた。
それにしても最近の猪瀬知事のオロオロ顔には情けなくなってしまう。自分の事になると潔い決断はできなく
なるのかもしれないが、自分で自分を追及すれば結論はすぐ出るだろうに。
石脇から高草山へのハイキングコース見ながら更に行くと、今度は林叟院Aコースの案内が出てきた。
ここまで来れば笛吹段公園は近い。
当初は笛吹段公園で景色を見ながら昼飯にしようと思ったが、公園に着いたのが10時40分。今朝は始発電車
ではなかったので朝飯が遅く、まだそれほど腹が空いていない。昼飯はもっと先にしよう。
見晴台から焼津港 農道から焼津
笛吹段公園には古墳時代後期に築かれた横穴式石室をもつ円墳が二ヶ所公開されている。先ほど分岐があった
兎沢古墳に比べ、笛吹段古墳は有名だが古墳そのものの規模は数段落ちると思う。
ただこの古墳はハキングコースの途中にあるので知られているようだ。以前焼津市主催の高草山の歴史の
講演会で講師が「笛吹段古墳が整備されない前は、古墳の石垣を便所と思ったのか、時々ティッシュがあった」と
話したが、まさに古墳と知らなければ、便所とは思わないまでも、単なる溝と思ったかもしれないような古墳だ。
広場になった公園の上には、焼津市出身の衆議院議員の揮毫による「拓高草山」と彫られた記念碑が建っている。
石碑の建立年は平成7年になっているのをみると、比較的新しく開拓されたようだ。
笛吹段古墳 笛吹段公園の記念碑
笛吹段公園をネットで検索すると夜景スポットを紹介した記事が多い。ここの夜景はまだ一度も見た事がないが
確かに志太平野を一望できるここからなら夜景は見えるだろ。ただ夜景の元が焼津や藤枝の地方都市なので光源
の量が少なくないか心配だ。そんな事はともかく笛吹段公園からはこんな景色を見る事が出来ます。
笛吹段公園から志太平野の眺め
出発時間:7時45分 到着時間:17時30分
歩 数: 45、662歩 GPS距離:32.1km
行程表(2013-11-30)
焼津駅 0:40> 138農道入口 1:10> 見晴台 0:45> 笛吹段公園 0:40> 富士見峠 0:10> 池の平
0:30> 北のピーク 1:20> 池の平 1:20> 農道出口 2:00> 西焼津駅
一昨年焼津市が「高草山ナイトウォーク30k」の募集をしていたので、30kmに魅力を感じて応募したが、
人数が集まらず中止になった事がある。
高草山の農道は分岐や途中で終点する農道が多く、山道の接続用としては歩いていたが、農道歩きを主体と
しては歩いた事がなかった。それが今年6月の大崩山塊山行の際、時間が余ったので鞍掛峠から簡保の尾根の
中腹を走る農道を、簡保下まで歩いて焼津駅に帰った事がある。その時、農道沿いに大きなモミジの木が何本か
植えられている場所を見つけた。これならこのモミジと農道歩きを併せた歩きを秋にしてみようと思っていた。
農道が30kmもあるとは思えないが、ともかく出発点は簡保の尾根の南の端から、北の端の西尾根下国道1号線
バイパスまでにした。ただ農道は分岐が多いので、事前に農道の概略は調べておいたが、地図に農道の全てが
載っているとも思えない。その時は、その時で現地で判断して、行き止まりになったら戻ればよいし、嫌になったら
山道を下ればいい。と、マー気楽な気持ちで出発した。
簡保の尾根下農道入口
寒い朝で農道開始点に着いた時、温度計は3℃だった。ついこの前の10月には44℃もあったのが今日は40℃も
下がってしまった。寒さは歩き出して体が暖かくなれば何ともないが、辛いのは朝自転車で駅まで行くときだ。
耳や手が寒さで痛くなるってくる。そんな時季が迫ってきている。
海雲寺の手前の農道入口を入ると、今まで平坦だった道が急に傾斜がきつくなる。坂道は辛いが逆に寒い時は
上り坂の方が体が暖まり有りがたいくらいだ。入口から5分ほどで期待していたモミジの並木に着いた。
しかしここのモミジはどれもこれも黄葉ばかりで赤い葉が無い。
今年は小国神社で綺麗な紅葉を2回も見ているので目が肥えてきたのだろうか。でも矢張り紅が無い淋しい。
農道脇のモミジの黄葉
少し高度が上がると焼津の町が見えてきた。JR東海道線、新幹線、国道150号それに東名高速が走っている。
山の斜面位はミカンが栽培されていて、丁度収穫時期を迎えているのか農道にトラックが停まっている。
ミカンは如何にも取ってくれと言わんばかりに、農道の方に枝を伸ばし私を誘惑する。こういう誘惑には弱い
私には中々厳しい道だ。どうかミカン畑には農家の人がいますように------
道端で作業をしていた人と挨拶を交わし少し話をした。その中でこんな話があった。
「この下の小浜の衆は、海岸ばたの元小浜から移って来た衆で、今も元小浜に地所を持っている人がいる。
中には海岸や島の所有者もいる。だけど前からは海が近づき、後ろは崖崩れで土地が狭くなったので、こっちに
移った来た衆だ」 これはタイミングが良いと、前から気になっていた事を聞いてみた。
「元小浜では塩を作っていたのですか?」
「おりゃ野秋だから、他所のの事は知らないが、多分作っていたと思うよ」 だって。
ついでに野秋の事を聞くと
「野秋は古くからあったで、須賀神社の所が1番地で北の方に広がっている。南隣の小浜は、元小浜から
移ってくる前は、人は住んでいなかったらしいよ」 自分のには誇りを持っているようだ。
私の知っている須賀神社と野秋の説明を追加するなら、須賀神社は新幹線のトンネルの所にあり、神社の
祭神はその名の通り、須佐之男命(すさのおのみこと)だが、神社の縁起書には
「日本武尊がこの地において野火の難にあわれたため、かっての村名を野焼村といい、社号を野焼神社と称し
たいう。実際、諸郡神階帳に「正四位下 野焼神社」とある。
しかし疫病が流行し、民家もたびたび焼失したため、焼という字を改めて村名を野秋とし現在の社号にした」
と伝説と理解すれば面白い話を書いてある。
更にこの話を私の妄想的歴史観で脚色するなら、野秋の元の名称の野焼は日本武尊の伝承ではなく、焼津の
語源と同じように(これも私の妄想的歴史観だが、焼津は海辺(津)近くに天然ガスや熱湯の噴出していて、
葦などの植物が焼けた状態だった事から焼津のが地名になったと思う。ただし焼津市HP等は日本武尊説を
採っている)この野原の近くに、天然ガスや温泉が湧きだしていた事から付けられた地名ではないかと想像
している。
若しこの私の妄想が当たっているなら、野秋で温泉の試掘をすれば熱湯が噴出してくるかもしれない。
誰か挑戦してくれないかな。
眼下に焼津市街 農道脇のミカン畑
砂張屋の道標への分岐の辺りから農道の傾斜は増してくる。兎沢古墳の分岐を過ぎて最後の一踏ん張りを
してようやくこの辺りの最高点に着いた。ここから先は当分下りか平らな道で歩きは楽になる。
石部峠への分岐、花沢の里の水車小屋への分岐を過ぎ、日本坂峠の分岐に来ると、何やら貼紙がしてある。
「大崩ハイキングコースの通行禁止につて 大崩海岸の崩壊が続いているため簡保の宿の入口~砂張屋
孫右衛門道標は現在通行できません。 平成25年10月25日 焼津市役所」と書いてある。
ウーン良かった。来週は簡保下から石部峠を下って鉄道遺跡に行く予定だったので助かった。
日本坂峠の分岐の次は鞍掛峠、廻沢峠の分岐と続く。そして見晴台に到着。ここまで約2時間かかっている。
この見晴台には百地蔵で紹介した「駿河国分尼寺」の事が書かれた案内板が建っているので、それを確認する。
「高草山法華寺は、法華減罪の駿河国分尼寺として建立されたとされる」ウーン間違いない確かに書いてある。
ただこの見晴台の場所が法華寺の何だったかは書いてない。
この見晴台については以前から疑問を感じていたが、今回さらに疑問が増してしまった。この見晴台の場所を
ネットの地図で見ると、周りは花沢地区なのに、ここだけ野秋の飛地になっている。一体何故なのだろう?
ここから野秋の人達が海の状態を眺めた? ウーン私の妄想力を持っても理解不明な事だ。
それにしてもこの見晴台の事を今までけなしていたが、今回の農道歩きには丁度良い休憩場所になった。
一応トイレもあるし座る所もある。眺めは--------
見晴台を出て鞍掛峠からの農道に合流する。更に直進すると焼津辺の道の石脇口と、高草山のへの分岐に出る。
距離は石脇口を廻った方のが長くなるが、その道は時々歩いている。一方この分岐から高草に向かう農道は余り
歩く事がないので久し振りに歩く事にした。
今まで下り勾配だった道が急に傾斜を増してきた。景色も簡保の尾根や焼津の町も見えてくる。分岐から
25分で再度石脇からの農道に合流。石脇経由なら1時間程度は掛かるだろうから大分程短くなってしまった。
左に焼津港や志太平野を眺めながら農道を歩く。この景色を見ると必ず思いだすのが、東京都知事になった
猪瀬直樹の事だ。彼が道路公団民営化委員のとき、第2東名は建設中だったが、彼の「無駄な高速道路」の
追及にあい、その完成が大分遅れてしまった。
だがその頃から海に近いここ焼津や薩埵峠の東名高速を見ている私には決して無駄とは思えなかった。
その頃も東海沖地震が叫ばれており、津波の恐れの無い場所に代替の高速道路は必要だと感じていた。
それにしても最近の猪瀬知事のオロオロ顔には情けなくなってしまう。自分の事になると潔い決断はできなく
なるのかもしれないが、自分で自分を追及すれば結論はすぐ出るだろうに。
石脇から高草山へのハイキングコース見ながら更に行くと、今度は林叟院Aコースの案内が出てきた。
ここまで来れば笛吹段公園は近い。
当初は笛吹段公園で景色を見ながら昼飯にしようと思ったが、公園に着いたのが10時40分。今朝は始発電車
ではなかったので朝飯が遅く、まだそれほど腹が空いていない。昼飯はもっと先にしよう。
見晴台から焼津港 農道から焼津
笛吹段公園には古墳時代後期に築かれた横穴式石室をもつ円墳が二ヶ所公開されている。先ほど分岐があった
兎沢古墳に比べ、笛吹段古墳は有名だが古墳そのものの規模は数段落ちると思う。
ただこの古墳はハキングコースの途中にあるので知られているようだ。以前焼津市主催の高草山の歴史の
講演会で講師が「笛吹段古墳が整備されない前は、古墳の石垣を便所と思ったのか、時々ティッシュがあった」と
話したが、まさに古墳と知らなければ、便所とは思わないまでも、単なる溝と思ったかもしれないような古墳だ。
広場になった公園の上には、焼津市出身の衆議院議員の揮毫による「拓高草山」と彫られた記念碑が建っている。
石碑の建立年は平成7年になっているのをみると、比較的新しく開拓されたようだ。
笛吹段古墳 笛吹段公園の記念碑
笛吹段公園をネットで検索すると夜景スポットを紹介した記事が多い。ここの夜景はまだ一度も見た事がないが
確かに志太平野を一望できるここからなら夜景は見えるだろ。ただ夜景の元が焼津や藤枝の地方都市なので光源
の量が少なくないか心配だ。そんな事はともかく笛吹段公園からはこんな景色を見る事が出来ます。
笛吹段公園から志太平野の眺め
それにしても今年2月に歩いた時は、将来の不安を感じたものの、僅か半年余りであのように道が荒れてしまうとは----驚きました。
このままだと立石神社と北のピーク間の道は通行不能となってしまい、池の平から往復するしかなくなるかも、いやピーク最後の上りの茶畑が放棄されれれば、それすら望めなくなりそうです。
まだどこかの山中でお会いするのを楽しみにしています。
はぐれ遍路さんが立石神社から登った記録を読み返すと,既にその道が藪になりつつあることが書かれていました。