歩行記録 H27-8-19(水)
歩行時間:1時間50分 休憩時間:1時間50分 延時間:3時間40分
出発時刻:10時05分 到着時刻:13時45分
歩 数: 11、909歩(推定距離8.9km) GPS距離8.5km
行程表
大井バス停 0:10> 上陸大師 0:25> 35番 0:15> 36番 0:10> 師崎港 0:10> 篠島港 0:15> 38番 0:05> 番外
0:05> 39番 0:15> 篠島港 0:06> 日間賀島港 0:05> 37番 0:05> 日間賀島 0:05> 師崎港
39番医徳院(島弘法)
帝 井 帝 井
西方寺にあった道標に従い39番医徳院(いとくいん)に向かって歩いていると四阿のような建物が目に入った。
近付いて行くと 「帝井」 の額が見えてきた。ラッキー!
篠島の見所を事前に調べたら、この帝井(みかどい)の事が紹介されていたので、時間があったら見てみたいと思っていた。
だが島内は狭い道がアチコチに延びていて、今も何処を歩いているのか分からない状態だ。
これでは探しながら歩くのは無理だと諦めていたのです。
南知多町の案内板によると帝井とは
「南北朝時代の延元3年(1388)後醍醐天皇の皇子・義良(のりなが)親王(後の後村上天皇)が東征の折、途中で暴風雨に
遭い篠島に漂着された。
当時島にも井戸はあったが、どの井戸も水量が少なく塩分の多い水ばかりでだったので、島人たちは申し訳なく思い新鮮な水を
求めて山中を探して、ようやく見つけたのがこの清水だった。
これが帝井の始りで、汲んだ水は親王の滞在する城山まで運んで飲料水として使用した。
篠島に約半年間滞在された後、吉野に帰った義良親王は、延元4年即位し後村上天皇となった。それ以来この井戸を帝井と
呼ぶようになりました。」
この井戸は島に水道が引かれるまで利用されていたという。また井戸の周りの岩畳はかっての遺構のままだそうです。
島(山)弘法 島(山)弘法
篠島は道の脇に祠に入った石仏がアチコチに安置されている。初めは “篠島六地蔵”とか “車地蔵” の文字を見たので
てっきりそのどちらかの地蔵だと思った。でもそれは間違っていました。
この石仏は 「島弘法」 と呼ばれている、島民に密着した風習だったのです。
「今から約百年前、遠州灘を襲った嵐と時化で篠島の漁師10名が遠州灘で遭難してしまいました。
島ではその人達の慰霊のため、八十八体の石仏で島を囲み、海の安全を守るようにと、海に向けて安置しました。
その石仏の事を島では、「弘法さん」 とか 「山弘法さん」 と呼んで大事にしています。
数十年前までは、3月21日の弘法大師の命日には、島の人たちはお弁当を持ってお参りをしたそうです。」
島弘法の祠には番号が書かれているが、現在では八十八体を越えて百体以上あるそうです。
医徳院本堂(右)と金毘羅堂 本堂内部
医徳院の山門(?)には医徳院と篠島保育園の標札が掛かっていた。境内にも遊具が置かれているので、ここは園庭兼境内
なのだろう。
この医徳院に又もや気になるこんな言い伝えがあった。 「本能寺の変により堺港を脱出した家康は、伊賀越をしたあと篠島に
上陸し、医徳院に一泊した。」 たったこれだけですが気になりますよネェー。
だって医徳院の近くには、家康が幼少の頃世話になった和尚のいる正法寺があるのですから、それを無視してこの寺に泊まる?
アッ 若しかしたら敵の目を誤魔化すために、あえて縁の無い寺に泊まったのかな。
マーそれは良しとしよう。だがもっと気になるのは伊賀越をした家康一行のコースの事だ。
一般的に伊賀越は、伊勢白子の浜(鈴鹿市)から伊勢湾を渡り、三河大浜(碧南市)に上陸したとされている。
ただこの伊賀越は小人数で密かに行われたので諸説色々あり定説はなさそうだ。
だとしても緊急を要する脱出行なのに目的地を目前にして、のんびり篠島に泊まったりするだろうか。家康とすれば一刻も早く
岡崎城に戻り、明智光秀に対抗する軍を整備しなければならない。例え夜でも船は走らせただろう。と、私の妄想的歴史観は
家康の医徳院泊り説は否定するのでした。
弘法堂 修行大師像
医徳院の本尊は、「海中に光を発して輝く物を夢で見た漁師が、それを引き揚げると薬師如来像だった」 と伝えられている。
別名「八十八長寿薬師」と呼ばれ、家内安全、病気平癒、身体健康を祈願すれば米寿まで長生きできるらしい。
中々上手なネーミングだが、何故 “八十八” なのかの謂れが欲しいところだ。例えば本尊を引き揚げた日が八月八日とか、
漁師の年齢が八十八歳だったとかにすれば、もっと説得力が増す。そんな事は無いかな ・・・・・・・
西芳寺から医徳寺への道(参考)
下から見た医徳院 札所のお接待
医徳院をお詣りしている途中から、またもや雨がポツポツと落ちてきた。これでは島内の散策はできないと諦め、下の向かって
いる道を下りフェリー乗り場に急いだ。
途中数台のバイク(原付)と行きかったが、いずれのバイクもヘルメットを被っていなかった。どうやらこの島はヘルメットに関しては
治外法権らしい。信号も無さそうな島内のこと故、目くじらを立てる事も無さそうだ。
しかし次に擦違ったバイクはいけない。携帯を見ながらの運転だった。ヘルメットは自分が痛い目に合う自業自得だが、ながら携帯は
他人に危害を与える。これは止めてほしいな。いや止めるべきだ。
(写真を撮りたかったが怖いので止めた)
医徳院から真っ直ぐ乗り場に戻ったため、日間賀島行き定期船は予定より1時間前に乗ることができた。
医徳院からフェリー乗り場への道 (参考)
歩行時間:1時間50分 休憩時間:1時間50分 延時間:3時間40分
出発時刻:10時05分 到着時刻:13時45分
歩 数: 11、909歩(推定距離8.9km) GPS距離8.5km
行程表
大井バス停 0:10> 上陸大師 0:25> 35番 0:15> 36番 0:10> 師崎港 0:10> 篠島港 0:15> 38番 0:05> 番外
0:05> 39番 0:15> 篠島港 0:06> 日間賀島港 0:05> 37番 0:05> 日間賀島 0:05> 師崎港
39番医徳院(島弘法)
帝 井 帝 井
西方寺にあった道標に従い39番医徳院(いとくいん)に向かって歩いていると四阿のような建物が目に入った。
近付いて行くと 「帝井」 の額が見えてきた。ラッキー!
篠島の見所を事前に調べたら、この帝井(みかどい)の事が紹介されていたので、時間があったら見てみたいと思っていた。
だが島内は狭い道がアチコチに延びていて、今も何処を歩いているのか分からない状態だ。
これでは探しながら歩くのは無理だと諦めていたのです。
南知多町の案内板によると帝井とは
「南北朝時代の延元3年(1388)後醍醐天皇の皇子・義良(のりなが)親王(後の後村上天皇)が東征の折、途中で暴風雨に
遭い篠島に漂着された。
当時島にも井戸はあったが、どの井戸も水量が少なく塩分の多い水ばかりでだったので、島人たちは申し訳なく思い新鮮な水を
求めて山中を探して、ようやく見つけたのがこの清水だった。
これが帝井の始りで、汲んだ水は親王の滞在する城山まで運んで飲料水として使用した。
篠島に約半年間滞在された後、吉野に帰った義良親王は、延元4年即位し後村上天皇となった。それ以来この井戸を帝井と
呼ぶようになりました。」
この井戸は島に水道が引かれるまで利用されていたという。また井戸の周りの岩畳はかっての遺構のままだそうです。
島(山)弘法 島(山)弘法
篠島は道の脇に祠に入った石仏がアチコチに安置されている。初めは “篠島六地蔵”とか “車地蔵” の文字を見たので
てっきりそのどちらかの地蔵だと思った。でもそれは間違っていました。
この石仏は 「島弘法」 と呼ばれている、島民に密着した風習だったのです。
「今から約百年前、遠州灘を襲った嵐と時化で篠島の漁師10名が遠州灘で遭難してしまいました。
島ではその人達の慰霊のため、八十八体の石仏で島を囲み、海の安全を守るようにと、海に向けて安置しました。
その石仏の事を島では、「弘法さん」 とか 「山弘法さん」 と呼んで大事にしています。
数十年前までは、3月21日の弘法大師の命日には、島の人たちはお弁当を持ってお参りをしたそうです。」
島弘法の祠には番号が書かれているが、現在では八十八体を越えて百体以上あるそうです。
医徳院本堂(右)と金毘羅堂 本堂内部
医徳院の山門(?)には医徳院と篠島保育園の標札が掛かっていた。境内にも遊具が置かれているので、ここは園庭兼境内
なのだろう。
この医徳院に又もや気になるこんな言い伝えがあった。 「本能寺の変により堺港を脱出した家康は、伊賀越をしたあと篠島に
上陸し、医徳院に一泊した。」 たったこれだけですが気になりますよネェー。
だって医徳院の近くには、家康が幼少の頃世話になった和尚のいる正法寺があるのですから、それを無視してこの寺に泊まる?
アッ 若しかしたら敵の目を誤魔化すために、あえて縁の無い寺に泊まったのかな。
マーそれは良しとしよう。だがもっと気になるのは伊賀越をした家康一行のコースの事だ。
一般的に伊賀越は、伊勢白子の浜(鈴鹿市)から伊勢湾を渡り、三河大浜(碧南市)に上陸したとされている。
ただこの伊賀越は小人数で密かに行われたので諸説色々あり定説はなさそうだ。
だとしても緊急を要する脱出行なのに目的地を目前にして、のんびり篠島に泊まったりするだろうか。家康とすれば一刻も早く
岡崎城に戻り、明智光秀に対抗する軍を整備しなければならない。例え夜でも船は走らせただろう。と、私の妄想的歴史観は
家康の医徳院泊り説は否定するのでした。
弘法堂 修行大師像
医徳院の本尊は、「海中に光を発して輝く物を夢で見た漁師が、それを引き揚げると薬師如来像だった」 と伝えられている。
別名「八十八長寿薬師」と呼ばれ、家内安全、病気平癒、身体健康を祈願すれば米寿まで長生きできるらしい。
中々上手なネーミングだが、何故 “八十八” なのかの謂れが欲しいところだ。例えば本尊を引き揚げた日が八月八日とか、
漁師の年齢が八十八歳だったとかにすれば、もっと説得力が増す。そんな事は無いかな ・・・・・・・
西芳寺から医徳寺への道(参考)
下から見た医徳院 札所のお接待
医徳院をお詣りしている途中から、またもや雨がポツポツと落ちてきた。これでは島内の散策はできないと諦め、下の向かって
いる道を下りフェリー乗り場に急いだ。
途中数台のバイク(原付)と行きかったが、いずれのバイクもヘルメットを被っていなかった。どうやらこの島はヘルメットに関しては
治外法権らしい。信号も無さそうな島内のこと故、目くじらを立てる事も無さそうだ。
しかし次に擦違ったバイクはいけない。携帯を見ながらの運転だった。ヘルメットは自分が痛い目に合う自業自得だが、ながら携帯は
他人に危害を与える。これは止めてほしいな。いや止めるべきだ。
(写真を撮りたかったが怖いので止めた)
医徳院から真っ直ぐ乗り場に戻ったため、日間賀島行き定期船は予定より1時間前に乗ることができた。
医徳院からフェリー乗り場への道 (参考)
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