みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(60~63p)

2020-12-20 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう 〈『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~〉
と〔澱った光の澱の底〕に詠んだのだと推測できたから、帰花後の賢治はさぞかし稲作指導に意気込んでいたであろうとばかり思っていた。というのは、田植やそれが終わったこの時期はあの賢治ならばあちこち飛び回って稲作指導をしていたであろう時期であり、一方で肥料設計をしてもらった農民達は特にその巡回指導を首を長くして待っていた時期であるはずだからでもある。それ故にこそ、賢治は〔澱った光の澱の底〕を昭和3年6月下旬に詠んだという『新校本年譜』の推定は妥当だと以前の私は納得していた。
 ところが、伊藤七雄に宛てたというこの年の〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡(240)下書㈡に、
 …こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
ということが書かれているということをある時知った。それまでは、当時眼を患っていたと賢治が言っていたことは知っていたのだが、「しばらくぼんやりして居りました」ということを全く知らずにいたので吃驚した。そしてもしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」とか「やっと」という表現からしても、賢治が帰花直後の24日や25日にこの〔澱った光の澱の底〕を詠んだということはなかったと言えそうだ。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できるからだ。これらの表現からは、帰花後の数日は何もせぬままに賢治はぼーっと過ごしていたという蓋然性が高い。しかも7月3日付書簡(239)には、
 約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして
としたためていることから、約束でさえも後回しにしていることが知れるので、7月初め頃もまだ賢治のやる気はあまり起きていなかったと言えそうだから、賢治は「しばらくぼんやりして居りました」ということがこのことからも裏付けられそうだ。
 それはまた、賢治は、
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
        …(筆者略)…
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んではいるものの、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと見積もってみても、賢治にとってはかなり無茶な行程となってしまうことからも裏付けられそうだ。
 そこでそのことを次に検証してみる。まずはそのために、この行程を当時の『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)を用いて、地図上で巡回地点間の直線距離を測ってみると、おおよそ、 
「下根子桜」→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→
8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→「下根子桜」
となる。つまり、
   全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となる。
 では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻り切れるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと云われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても、
    最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。その上に、稲作指導のための時間を加味すればとても「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 まして、前掲の詩〔澱った光の澱の底〕において次のように、
    眠りのたらぬこの二週間
    瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た
と詠んでいる賢治には、このような行程を一日で廻り切るのはちょっと無理であろうことはほぼ自明である。だからこの〔澱った光の澱の底〕はあくまでも詩であり、賢治がその通りに行動したと安易に還元はできないし、その通りにはもともと行動することがまずできなかったということである。
 最後に、同年の8月の賢治の営為を『新校本年譜』によって見てみれば、
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。〔下根子桜から豊沢町の実家に戻り病臥〕
八月中旬 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で下根子桜の別宅を訪れる(賢治不在)。
ということだから、8月10日以降は賢治が稲作指導をしようにも体がそれを許さなくなってしまったということになってしまう。
 さて、稲作指導者という立場から賢治が昭和3年のヒデリを心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るかということでここまで考察してきた。たしかに、この年の夏は稗貫郡でもヒデリが続き、約40日以上もそれが続いていたのだが、賢治は農繁期である6月にも拘わらず、上京・滞京していてしばらく故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたこと、そして8月10日以降は実家に戻って病臥していたことなどからして、昭和3年の夏のヒデリやそれによる農民の労苦を賢治がそれほど気に掛けたり心配したりして奮闘していたとはとても言えない。言い換えれば、稲作指導者という立場

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