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『追悼 義農松田甚次郎先生』のまとめ【後編】

2020-12-19 20:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)〉

 では今回は、今迄の投稿の中身で残っている各回をざっと振り返ってみたい。
**********************************************************【前篇】**********************************************************

・岩手 佐々木由太郎
 松田甚次郎の「土に叫ぶ」等は当時の多くの人々、とりわけ農業に携わっている人達から高く評価されていたことは疑いようがない。そして、それは単なるベストセラーではなく、当時農業恐慌等でとりわけ苦しんでいた農民たちに救いの手を差し伸べ、彼等の未来に光明を灯してくれる存在だったに違いない。
・山形県 長島正雄
 甚次郎が「師父」と称えられるのは至極当然であろうと、改めて思わせられた。
・秋田 加藤徳右エ門
 甚次郎の気さくな人柄が偲ばれる。一方で、「先生が土の上より起たしめた」という言辞等から、やはり、甚次郎は塾生たちと一緒に泥まみれ汗まみれになりながら農産物の増産のために「必死」になって取り組んだということも示唆される。
・長野 竹内斌
 この追悼でやはりな、と思ったのは、「実践即教育の信條の偉大さはいつも先頭に立たれて黙々と働れ」という記述だ。他の入塾経験者も似たようなことを言っていたが、やはり松田甚次郎は「いつも先頭に立たれて黙々と働れ」ていたのだ。だからこそ、甚次郎は彼等に慕われ尊敬されていたのだ、きっと。そして当たり前の話しだが、いくら立派な事を言っても、それを己が為さなかったならば、そうはならないことは自明だ。
・埼玉 牧野藏之助
 甚次郎が、「私は何も望んでるんぢやないです。只、お互いの住む村を農村を明るくそして和やかにして暮らして行きたい許りにかうして叫ぶのです」と言ったという、牧野が教えてくれる証言だ。この証言によって、甚次郎は「時流に乗り、国策におもね」ようとしたわけではなく、只ひたすら純粋に、
   お互いの住む村を農村を明るくそして和やかにして暮らして行きたい
と願っていただけだったのだ、と私には素直に解釈できた。
 なお、これに関連して牧野は「随所に現はれた皇国の農人としての先生の巨きな精神」と言っているが、それは甚次郎自身が顕わに言ったのか、それとも牧野がそう受けとめたのか現時点では判然としないので、ここでは心に留めておくだけにしたい。が、そのどちらであったのか、はたまた甚次郎が仮にそう思っていたとしても、そう思っていたのは日本中で甚次郎唯一人であったのかということは、ほぼ明らか。
・長野 萩原逞次
 やはり萩原も「先生は無言のうちに我々を導いて呉れました」と語っており、先に長島正雄が、「先生ほど徹頭徹尾不言実行の一路を大なる至誠をもつて貫き通された方はありません」と言っていたことを思い出す。しかも、その時正しくは、「眞に土に生きる總ての人々がそうであるやうに、先生ほど徹頭徹尾不言実行の一路を大なる至誠をもつて貫き通された方はありません。」と言っていたことに気づき、そういうことになるのかと私は一人言を言った。そうか、「眞に土に生きる總ての人々がそうである」のか、と。
 そしてまた、「私が塾に居る時にも昼間は野良仕事に精出、夜分は夜分で毎日筆記ごとをなされておりました。……そんな故か田圃にゐて体の具合が悪いやうな時が屡々見受けられました」ということだから、甚次郎は泥田に入って実際に米を作ることはもちろんだが、とりわけ青年農民たちの指導等のために己の体に日々鞭打ち、ついにはその無理が祟って斃れたのだ、と改めて私は覚った。言うだけ言って、自分は何も為さなかったという様なアンフェアな人物では決してなかったのだ。
・山形 花山昭雄
 「我が郷土でも農村劇を行つて居ますが、先生の間接の御指導多大に受けて居ます」ということだから、農村文化の向上のために昭和2年から取り組み始めた演劇活動は山形県下全体にじわじわと普及して行ったということを示唆してくれる。つい、今迄の多くの「追悼」から、甚次郎の影響は全国に波及していたということに目が行っていたが、この「追悼」により、地元の山形でも着実に浸透していたということも確認できたと言える。延いては、多くの人々から、とりわけ農村青年からの松田甚次郎の支持は高く、敬慕されていたことはもはや疑いようがない。
・会津 星 賢正
 あゝ、若くして逝かれし松田甚次郎先生、先生の「永遠の師父」宮澤賢治先生に先立たるゝこと三年 享年三十有五才。
・新潟 岩杉利助
 「土に叫ぶ」を通じて当時の多くの農民たちは甚次郎の精神を学び、農村文化の向上を目指し、農産物の増産に励んだということは疑いようがない。だからこそ、同書は大ベストセラーになったのであり、甚次郎は彼等に支持され慕われたのだ、ということになろう。
 一方で、同書やロングセラーの松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』によって、賢治の名と作品が初めて全国的に知られるようになったのだから、宮澤家や賢治の地元花巻の人々は松田甚次郎に最大級の感謝と敬意を払っていたはずだ。まさに、その証左の一つが、甚次郎没直後に遠く離れた花巻の宗青寺で追悼式が盛大に執り行われたことだ。
 にもかかわらず、戦後になると急に、松田甚次郎の名は賢治周辺や地元花巻からは消え去ってしまった。どうしてなのだろうか、不思議だ。そこで少し調べてみると、たとえば、甚次郎が「農本主義者」だったことがその大きな一因だと言われているようだ。が、それは主たる理由とはなり得ないということは、私も最近少しずつ解りかけてきた。毀誉褒貶は世の常なのだろうが、それにしてはあまりにも不自然すぎると感ずることを私は禁じ得ない。
・朝鮮 石垣清雄
 国家總力戰と盛に呼ばれてゐる今になつて、1+1=2ではなく1+1=100位にならなければ絶対戰争には勝てぬと、よく協力論法が引き出されるけれど、塾創立前から、塾精神、即全農村の幸福、ひいては「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」との宮沢先生のお言葉に立脚して、營々と努力して来られた先生の姿を、自分は今、在塾時のアルバム中にはつきりうかべることが出来る。
・群馬 阿部いわ
 以前述べたように、「甚次郎は「農村婦人愛護運動」にも熱心に取り組み、住井すゑや奥むめお等との交流も深かったという」だけあって、なるほどと私は納得した。例えば、「どんなに困つても先生に御相談申上げれば直ちに解決して下されるような氣がしてお母さんのような思いでお慕い申して居りました」ということはさもありなんと。
・山形 早坂 昇
 あなたは「校服を脱ぎ棄て自ら歸農し小作人の立場に於て黙々として水涸と闘ひ自給肥料の増産に励みて農業経営の本質を物心両面より把握し、共働を唱へて農村の開発を叫ぶ自ら陣頭に立ち農民劇を演じてその人生觀を啓き説く所當らざくなく行う所ならざるなし」。 ←妥当な甚次郞評だろう。
・福岡 岸原俊基
 甚次郎の実践活動(村塾運動)は同書出版以前から既に一部の人達には知られており、なおかつ高く評価されていたということがこの「追悼」から示唆される。のみならず、甚次郎の活動に倣って、遠く九州で岸原によって村塾運動が展開されていたということも知った
・秋田 三宅秀雄
 甚次郎が内原の訓練所の実習生間で好評だったとすれば、甚次郎は満蒙開拓青少年義勇軍を結果的に鼓舞したことになるのだろうか。仮にそうだったとしても、「好評」であったからといって、「時流に乗り、国策におもね」と言って甚次郎一人を責めるのは酷だと思えるのだが。
・東京 名倉淳子
 ここまで引いた「追悼」の多くは農村青年の、それも男性のものが多かったのだが、今回は東京の、しかも女性からのものである。
 この「追悼」によれば、名倉 淳子は新国劇で上演された「土に叫ぶ」を観て感動し、次に著書『土に叫ぶ』を読んでいたく心を打たれたということなのであろう。そしてそれは何故かというと、「こんなにも眞劍に土を愛し求道の心に燃えて生きて行かれる」甚次郎の生き方に胸を打たれたからであり、其の後は「ひとりぎめに松田先生を師と仰ぎ朝に夕に師にを想ひ反省につとめました」となる。まるで、賢治から「小作人たれ/農村劇をやれ」と「訓へ」られて、そのとおりに実践した甚次郎と同じ構図だ。
 そして実際に、名倉はその努力の甲斐あって師範となり、しかも稽古所まで持つようになったということをこの追悼は教えてくれる。しかも、そうなれたのも甚次郎のおかげであると、名倉は感謝しているのである。よって、この名倉の追悼は、甚次郎の生き様は多くの農村青年に感銘を与え、その模範となるただけでなく、農村青年以外に対してもそうであったということを示す証左だ。
 言い方を換えれば、
   甚次郎の実践は「農本主義」の色濃いものではなく、もっと普遍性のあるものであった。
ということを、この追悼は示唆しているということになるのではなかろうか。
・岩手 館澤邦宣
 さて、この『追悼』集によって、私は貴重な事柄を新たに幾つか知ったが、これもそのうちの最たるものである。というのは、甚次郎は研修の最終日に研修生に対して、
一、眞の農民錬成道場は泥田にあり米作りせよ。
一、人の嫌ひな仕事をやれ
一、云ふもよい。しかし実行が先だ
一、つらき事、苦しき事を好んでやれ
一、人を使ふには充分注意せよ(人には陰日向あり)
と訓示していたというからである。
 そこには、賢治に対する実践家甚次郎の冷徹な、というか客観的な評価を私は垣間見てしまったからである。そしてその評価はなるほどと私を唸らせるものであった。今の時点ではまだはっきりとは言えないが、これで少なくとも賢治と甚次郎は根本的に違っていたのだということを、そしてどちらが農業指導者として高く評価されるべきかということを私はどうやら知ってしまったようだ。
・「未完書後記」
 この『追悼 義農松田甚次郎先生』について、安藤玉治は、
 次に一冊のガリ版の追悼文集を紹介したい。五〇頁の内容につめこまれた細字の文章は裸眼では読みとれないほどびっしりの追悼誌である。…投稿者略…
 かつての同志の手になるこの手づくりの一冊は、まさに追悼誌として、その配慮・努力の過程を思うとただ「悲痛なる壮観」とでもいうほかはない、真情のこもったものであった。
 右の企画から手配、印刷作業のほとんどすべてを一人の手でなしとげた吉田六太郎は入塾生ではないが、生前、松田が最も心を許し合った同志の一人であった。
と述べてあるとおりで、吉田六太郎が発行のために費やした労力と時間は如何ばかりであったであろうかと、私はいたく感心し敬服する。そして、吉田がそこまでしたのも甚次郎のことを高く評価し、敬意を払おうとしたからであろう。
・『宮澤賢治追悼』との比較
 これまで何度かこの『宮澤賢治追悼』を読み返したきたが、『追悼 義農松田甚次郎先生』の追悼を読んで心が打たれたような感動は、ほとんど感じられなかったのはある意味当然だったのだ。同時に、甚次郎は多くの農村青年らから敬慕されていたことがなおさら浮き彫りにされてしまった。

**************************************************これらのことより*****************************************************

 松田甚次郎の『土に叫ぶ』等は、当時農業恐慌等でとりわけ苦しんでいた農民たちに救いの手を差し伸べ、彼等の未来に光明を灯してくれた。
 甚次郎は塾生たちと一緒に、先頭に立って泥まみれ汗まみれになりながら黙々と農産物の増産のために「必死」になって取り組んだ。
 甚次郎は、「私は何も望んでるんぢやないです。只、お互いの住む村を農村を明るくそして和やかにして暮らして行きたい許りにかうして叫ぶのです」と言ったという。
 甚次郎は多くの農村青年らから敬慕されていたことがなおさら浮き彫りになった。
 甚次郎が「師父」と称えられるのは至極当然であろう。
 甚次郎の実践は「農本主義」の色濃いものではなく、もっと普遍性のあるものであった。
 甚次郞は研修生に対して、
一、眞の農民錬成道場は泥田にあり米作りせよ。
一、人の嫌ひな仕事をやれ
一、云ふもよい。しかし実行が先だ
一、つらき事、苦しき事を好んでやれ
一、人を使ふには充分注意せよ(人には陰日向あり)
と訓示していた。

というようなことが言えそうだ。
 なお、甚次郞には、「随所に現はれた皇国の農人としての先生の巨きな精神」と牧野藏之助は言っているが、それは甚次郎自身が顕わに言ったのか、それとも牧野がそう受けとめたのか現時点では判然としない。が、それがどちらであったのか、はたまた甚次郎が仮にそう思っていたとしても、そう思っていたのは日本中で甚次郎唯一人であったのかということが、ほぼ見えてきた。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。



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