みちのくの山野草

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梅野健三と賢治について(前編)

2019-01-14 08:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 ではここからは、梅野健三なる人物について調べてゆきたい。
 まずは、『今日の賢治先生』(佐藤 司著)の巻末の「人物解説」によれば、
明四四~未詳 本名梅野建造、筆名高涯幻二、鮎川草太郎。梅野草二の弟。「無名作家」「新興芸術」「聖燈」「北流」等を編集発行。賢治は「無名作家」第四号に「陸中国挿秧之図」(昭二)、「聖燈」創刊号に「稲作挿話」を発表。
とある。
 そして、生前の名須川は時系列から言って下掲の《梅野健造》の証言を多分知ることはできなかったと思うのだが、『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)によれば、この梅野とは、大正15年18歳の時羅須地人協会を訪ね、主宰していた雑誌「聖燈」「無名作家」に寄稿してもらい、それ以降賢治とは深い交流が続いたという人物であり、梅野は次のような証言をしていたのだそうだ。
《梅野健造》の証言
 鳥山敏子の「昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取り調べを受けたのか」という問いに対して、梅野は「2回ほど花巻の警察にね」と答え、続けて以下の如く答えていた。
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にね労りの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)154p~〉

 そこで私は『本統の賢治と本当の露』において、続けて、
 さて、この45日間にも及ぶ拘留は昭和3年に為されたものと、またそこを出たのは12月だったと判断できるから、この長期間の拘留理由はこの年10月に行われた陸軍大演習に関わるものであり、その夏に行われた凄まじい「アカ狩り」によってでったあったと判断できる。そしてこの梅野の証言によって、賢治はその際に警察に呼ばれたということもほぼ確かな事となった。
と推断したわけだが、今回、陸軍大演習の前に吹き荒れた凄まじいアカ狩りによって函館に所払されて無念の最期を迎えた八重樫賢師のことを知って、この推断が間違っていなかったということ改めて確信した。というのはこれで、この時のアカ狩りに遭った、八重樫賢師は函館に奔り、後にも出てくのだが小館長右エ門は小樽に奔り、はたまた伊藤勇雄(10月4日、陸軍大演習にあたって、一週間以上拘置される)や川村尚三は拘束(一週間以上一月内外)され、そして梅野建造も拘束(なんとほぼ45日もの)されたということだから、まさに凄まじいアカ狩りがこの時に岩手に吹き荒れたと判断して構わないということを知ったからである。
 かくの如く、賢治と親交のあった人物やその周辺の人たちがこの時のアカ狩りで官憲からの圧力を受けていたのだから、賢治一人だけが蚊帳の外であったはずがない。やはり賢治も特高から目を付けられたはずだ。

 言い換えれば、『本統の賢治と本当の露』において論じた次のことがやはり間違っていなかったということにもなろう。
 賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらもチェックされる今では到底考えられない時代であった。                         〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p〉
と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
 また、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言している(『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)48p)ということだし、上田仲雄の論文「岩手無産運動史」(『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)所収)や名須川溢男の論文「宮沢賢治について」(同所収)等によれば、この大演習を前にして行われた無産運動家の大検束によって、その労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。つまり、両名はこの時の凄まじい「アカ狩り」に遭っていたと言える。その挙げ句、八重樫は北海道は函館へ昭和3年8月頃に、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は同じく小樽へ、やはり同年8月にそれぞれ追われたという。
 しかも高杉一郎によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、何とその将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない『アナーキスト?』と目していた」と言える(『極光のかげに』(高杉一郎著、岩波文庫)47p~)くらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治は警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のまさにその8月であったことからも端的に窺える。そこへもってきて、あの浅沼稲次郎でさえも、当時、早稲田警察の特高から「田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する」と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していた(『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎著、日本図書センター)29p~)ことを偶然知った私は、次のような、
〈仮説6〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
 そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡<*1>であり、「演習」が終るころまでは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」が時期的にピッタリと重なっていることだ。また、この大演習の初日10月6日には花巻日居城野で御野立があったわけだが、この際、10月3日に南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将が賢治の母の実家「宮善」宅にやって来て宿泊したという(昭和3年10月4日付『岩手日報』)ことだから、然るべき筋からの配慮が父政次郎に対してもあったであろう。そしてもちろん、この仮説の反例は一つも見つかっていないから検証がなされたということになる。
 よって今後この反例が見つからない限り、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからということよりは、本当のところは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったとなるし、賢治は病気ということにして実家にて「おとなしく謹慎していた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとなる。これでまた一つ、隠されていた真実が明らかになったと言える。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)86p~〉 

<*1:註> 『羅須地人協会の終焉-その真実-』(鈴木 守著)の表紙のこの書簡のことである。


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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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