みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「伊藤勇雄年譜」(誕生~昭和10年代まで)

2018-10-13 10:00:00 | 伊藤勇雄関連
〈伊藤勇雄〉(『夢なくして何の人生ぞ 伊藤勇雄の生涯』の見返しより)

 それでは、久保田好唯著『夢なくして何の人生ぞ』に所収されている「伊藤勇雄略年譜」を元にして、さらにシンプルな「伊藤勇雄年譜」を作ってみよう。

 今回は、誕生~昭和10年代までである。
《「伊藤勇雄年譜」(誕生~昭和10年代)》
明治31年
 9月11日 岩手県東磐井郡薄衣村字堀田百五番地に長男として生まれる。
明治38年(7歳)
 薄衣村尋常高等小学校へ入学
大正2年(15歳)
 3月24日薄衣尋常高等小学校を首席で卒業。同時に、農夫として働く。この頃、薄衣郵便局の郵便配達夫となる。またアメリカ帰りの加藤良之助の私塾で英語を、大村亮平の私塾で漢文を学ぶ。
大正3年(16歳)
 この頃、牧師加藤良之助の感化を受けてキリスト教の洗礼を受ける。
大正4年(17歳)
 12月 仙台の北部逓信通信生養成所に入所。
大正5年(18歳)
 5月 北部逓信通信生養成所卒業後、薄衣郵便局通信事務員となる。
大正6年(19歳)
 この頃、加藤とみえと結婚。
大正7年(20歳)
 この頃、単身上京。中央電信電話局に勤務。
大正8年(21歳)
 この頃、東京中央電信局に勤務。夜は英語学校に学び、キリスト教に熱中する。
大正9年(22歳)
 11月頃、麹町の屋敷で武者小路実篤と会い、彼の勧めで九州日向の「新しき村」へ行く。
大正11年(24歳)
 秋、新しき村で突如、天啓の如く「人間宗教」に開眼する。また有島武郎訳「ホヰットマン詩集」に感銘を受け、ホイットマンとは終生離れられないものとなる。この頃から、詩を書きはじめる。
大正12年(25歳)
 「新しき村」より上京し、再び労働と苦学の生活に入る。9月1日関東大震災に遭う。朝鮮人と間違えられ、危うく殺される目に遭う。九死に一生を得て帰郷。
大正13年(26歳)
 この頃、薄衣郵便局に勤務し、通信士となる。11月3日、詩集「名乗り出る者」処女出版。
大正14年(27歳)
 この頃、大地を支えている貧しい農民や労働者と苦楽を共にしようと決意し、農民運動家、労働運動家となる。
大正15年(28歳)
 3月、千厩町の千葉七郎、今野哲夫が勇雄の自宅に集まり、労働農民党支部結成の相談をする。この頃、労働農民党両磐支部長となる。
昭和3年(30歳)
 普通選挙法制定後初の総選挙が実施され、労働農民党の泉国三郎候補の選挙運動に没頭。
 3月15日、いわゆる三・一五事件で勇雄も検挙される。
 北上川工事賃金不払い問題の争議を指導。佐藤ツギと結婚。
 10月4日、陸軍大演習にあたって、一週間以上拘置される。
昭和4年(31歳)
 7月、千葉七郎、今野哲夫らと「岩手文芸」を創刊、編集発行人となる。
昭和5年(32歳)
 2月、総選挙にあたって泉国三郎候補の選挙運動に没頭。
昭和6年(33歳)
 全国労農大衆党岩手県支部連合会を結成。東磐実費診療所・薄衣実費診療所を開設するため、岩手医学専門学校を訪問し、三田俊次郎と初めて会う。
昭和7年(34歳)
 総選挙に再度泉国三郎候補の選挙運動に没頭。この頃、産業組合の再建、産青連運動の推進に当たる。4月、永井村の農地取り上げ、小作問題の争議を指導。5月5日、千葉七郎らと会員制の東磐実費診療所、薄衣実費診療所し、その経営に当たる。7月、社会大衆党岩手県支部が結成され、東磐支部長となる。
昭和8年(35歳)
 産青連東磐井郡連合の副理事長となる。その後、理事長となる。5月、薄衣村村会議員に立候補し、当選。
昭和9年(36歳)
 「購買利用組合東山病院」の専務理事となる。
*****************************************************************************************************
  ここで私が最も気になるのは、昭和3年(30歳)の次の二つの事柄である。
   ・3月15日、いわゆる三・一五事件で勇雄も検挙される。
   ・10月4日、陸軍大演習にあたって、一週間以上拘置される。
 ちなみに、『岩手県の百年』によれば、
 (昭和3年)三・一五事件で、伊藤勇雄、横田忠夫・義重兄弟、泉国三郎らが検挙され、労農党は解散命令を受けた。
               〈『岩手県の百年』(長江等共著、山川出版)160p〉
となっていて、いの一番に伊藤勇雄の名がある。
 あるいはまた、上田仲雄の「岩手無産運動史」によれば、陸軍大演習の際に行われた大検束によって、一週間以上~一日内外の検束処分にされた者については、
 千厩署 伊藤勇雄、盛署 野々村善三郎、水沢署 後藤政久、福地正治…(投稿者略)…花巻署 川村尚二、八重樫賢志<*1>、盛岡署 横田忠夫
             〈『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学学会)68p〉
となっていて、ここでもいの一番に伊藤勇雄の名が挙がっている。
 そこで言えることは、当時伊藤勇雄の活躍振りは相当のものであったということと、賢治の場合も、官憲からの何がしかの取調が避けられなかったであろうということだ。

<*1:投稿者註>
 「川村尚二、八重樫賢志」は正しくはそれぞれ 「川村尚三、八重樫賢師」であると思われる。

 続きへ
前へ 
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
********************************《三陸支援の呼びかけ》*********************************
 東日本大震災によって罹災したが、それにも負けずに健気に頑張っている(花巻から見て東に位置する)大槌町の子どもたちを支援したいという方がおられましたならば、下記宛先に図書カードを直接郵送をしていただければ、大槌町教育委員会が喜んで受け付けて下さるはずです。新設された小中一貫校・大槌町立『大槌学園』の図書購入のために使われますので、大槌の子どもたちを支援できることになります。

 〒 028-1121
   岩手県上閉伊郡大槌町小鎚第32地割金崎126
        大槌町教育委員会事務局
                  教育長 様
   なお、大槌町教育委員会事務局の電話番号は
        0193-42―6100
   です。





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 円万寺観音山(10/12、エグネ... | トップ | 発足当時の「新しき村」評 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伊藤勇雄関連」カテゴリの最新記事