《『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)の表紙》
柄谷氏は、
日本で重工業が確立してくるのは一九三五年以後で、それまでの産業資本家も労働者も、実際は農村と地続きです。彼らの意識が農本主義的になるのはそのせいでしょう。
〈『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)27p〉とも言っていた。ということは、昭和10年よりも前までは産業資本家と労働者もそれぞれ共に農村と密接に繋がっていたということか。となれば、そのベースは一緒だから、たしかに「農本主義的」になるということは自然か。
するとこれを受けて村井氏は、
ええ。賢治の場合、質屋をやっている限りは商人として農村から離れて交易が出来ましたが、東北砕石工場に入って産業資本化しようとすると、農村に直面する。「炭酸石灰」は土地の改良に結びついたものです。
〈同〉と補足していたのだが、私には「東北砕石工場に入って産業資本化しようとする」の「産業資本化」が意味するところがよくわからない。正しい意味は?と悩むが、まあそのうちわかるかもしれないということにして、気楽に待とう。
今度は柄谷氏が、
吉田さんの本を読んで思ったのは、二・二六に関与した農本主義者橘孝三郎のことですね。彼は茨城で農業を近代化・産業化しようとした。アメリカのトラクターまで買い込み、さらにデンマーク型畜産を導入したけど、ことごとく失敗した。彼のやったことは、宮澤賢治とよく似ています。結局彼の農業・農村の改革に共鳴したのは、上層部の農民や教師だけです。…投稿者略…農本主義というと、貧農のイデオロギーのように思われるけど、そうではない。農業近代化論者が農本主義なんですよ。
〈同〉と農本主義の話に繋げてゆく。
そこで私は、「農本主義というと、貧農のイデオロギーのように思われるけど、そうではない。農業近代化論者が農本主義なんですよ」という言説に驚く。そうは考えたことなど私は一度もなかったからである。まさに、貧農のものだと思っていた。しかも、ほぼ、
「農業近代化論者」=「農本主義」者
と言えるというのか。これじゃ、私はまだまだ勉強不足だなとつくづく思い知らされた。そしてまた、解釈を180度変えねばなぬのかもしれない。
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