みちのくの山野草

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資料「あまり世に知られていない証言等」

2017-06-24 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
            『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』













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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
   資料「あまり世に知られていない証言等」
・賢治が花巻農学校を辞めた際に、退任式や辞任式が行われたことを裏付ける資料や証言は何一つ見つからない。
・賢治は大正15年6月7日頃に、520円もの高額の一時恩給(退職金)を支給された。
・賢治、宮澤安太郎(賢治の従兄弟)、佐伯慎一(郁郎)、深沢省三、石川準十郎は皆「(東京)啄木会」の会員であった。
・佐伯郁郎は宮澤安太郎を介して賢治から『春と修羅』を贈られた。なお同書は『人首文庫』に所蔵されている。
・石川準十郎は、賢治さんは「私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた」とか「牧民会に出入りしていた」と証言している。
・千葉恭は下根子桜の別宅寄寓解消後、実家に戻って帰農し、地元の青年32名を誘って『研郷會』を組織、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうと腐心したという。
・あの「ライスカレー事件」が起こった時期は昭和2年の「雪消えた五月初めのころ」とのことである。(高橋慶舟の証言)
・伊藤ちゑは大正13年から、スラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動をしていた『二葉保育園』に勤めていた。
・ちゑは賢治との見合いについて、「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ」と深沢紅子等に漏らしていたという。
・ある年の10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡が存在していて、そこには賢治と結びつけられることを拒絶するちゑの懇願も書かれている。
・『イーハトーヴォ第四號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)に載ってる、「賢治先生の靈に捧ぐ」と題した、
*君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
*ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
*粉々のこの日雪を身に浴びつ君が德の香によひて居り
等を含む五首の作者「露草」は高瀬露であると判断できる。
・『校本全集第十四巻』は「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べているが、それは「新発見」でも何でもなく、その真相は露の帰天を待ってしたことであったということを、二人の関係者が後に正直に吐露している。
・また、同巻には、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」とあるが、その根拠も理由も何ら明示されていないから読者にとっては全く判然としない。
・菊池忠二著『私の賢治散歩 下巻』によれば次の通り。
 私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤(忠一)さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という。
・同じく、この伊藤忠一は、「協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う」とも語っていたという。
・賢治の教え子小原忠は、昭和2年の6月頃賢治の許を訪れた際に、「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」と賢治が語ったと言っている。
・昭和7年6月1日付〔森佐一宛〕書簡下書によれば、「羅須地人協会時代」の賢治は「玄米食」ではなかったことが判る。
・中舘武左エ門は佐藤金治(賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人で、その中で一番成績のよかった級長)ととても親しかったと言っている。
・昭和3年夏に賢治が実家に戻った時になって、政次郎は賢治がチェロを持っていることを初めて知ったという。
・賢治歿後に遺稿浄書、「宮沢賢治蔵書目録」作成、『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行した飛田三郎は、かつて露が勤務した寶閑小学校の教頭を勤めたことがある。
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『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)によれば以下の通り。
《朝倉六朗》(大正12年入学)の証言
 教科書以外の授業を10分間ぐらい時たまやる先生だった。あれ、余ってるんじゃなかったと思うですよ。計画的に先生がそういうことをやったと思うんですよ。必ず本を読み出すと、その本の感想なんかを始終、こういう本の中にこういうことがあったということを、よく言われる人だったんですよ。
 これに対して鳥山敏子氏が「覚えているのがありますか」と訊くと朝倉は、
 はっきり覚えてはいないけど、よくレーニンの話をしたんです。レーニンはこう言った。本当のレーニンの思想は今スターリンに引き継いでいないと。レーニンを尊敬したようなことを言って、本当はスターリンというのはレーニンの思想を本当に引き継いでいないというようなことを、あとちょっと聞いた気がしますね。だからあの頃の私にとっては、ずいぶん過激な話をするものだなと。
と答えていた。
《長坂俊雄》(大正11年入学)の証言
 ざまあみろ、というのは日本で一番悪いところ。人の不幸を喜ぶという。それを賢治は、社会主義者賢治がストップしてるもの。
というように、長坂はわざわざ「社会主義者賢治が」と言い直して、賢治が「社会主義者」と、唐突に言っていた。しかも、実は早坂の仕事は警察畑または検察畑だったから、この長坂の強調した「社会主義者賢治が」は重く受け止めねばならないだろうし、信憑性が高いと推断できる。
《高橋謙一》(寶閑小学校、昭和3年3月卒)の証言
 1時から農事講演会をやるかって、この人が先に立ってやっても、田舎のことだからほれ、1時だってぱっとみんな集まらなかったんだもの。
 そこで小学校の教師だった高瀬露さんが時間がもったいないからと、宮澤先生にお願いして子どもたちにお話しを語ってもらうことにしました。
 花巻から来て、したらね、高瀬露先生、ほれ宮澤賢治先生と同じ豊沢町で、若い時から知っていたでしょう。露先生がもったいないって、ほれ学校で先生たちで話して。1時からだって、1時半から2時にならなければ農家の人たちは集まらなかったんだもの。それで宮澤先生は童話やってるからみんな集まる前に30分ぐらい子どもたちさ童話聞かせてもらったものな。
 私は、1年生から5年生か6年生まで、毎年農事講話でたのんだもんだから、それで宮澤先生のことを尋常小学校終わるまで、ほれ農事講演で来た時に、みんな集まるまで30分かそこら、1年生から6年生まで講堂に150~160人集まって。1年に3回~4回も来たっけ。
 まずみんな講堂に集まれば、右から左までニコッと笑って、子どもたちの顔を見て、今日は何の話をしようかなって、右から左まで子どもたちの顔を見て、ニッコリ笑って、自分が寶閑小学校へ行ったとか、この何月に行ったとか、こげな話したとか手帳さ書いてあったんだものな。
 今日は何の話をしようかなって、ニッコリ笑ってみんなの子ども見てて。ああいうような先生もねぇもんだなす。
《梅野健造》の証言
 この梅野とはどんな人かというと、大正15年18歳の時羅須地人協会を訪ね、主宰していた雑誌「聖燈」「無名作家」に寄稿してもらい、それ以降賢治とは深い交流が続いたという人だということである。
 「昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取り調べを受けたのか」という鳥山敏子の問いに対して、梅野は「2回ほど花巻の警察にね」と答え、続けて以下の如く答えていた。
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らした訳だ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともある訳だよ。警察にね睨まれたいうのもそんな訳だよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待した訳だな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にある訳だよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまった訳だな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散した訳だ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
《照井保志(昭和3年3月卒)》の証言
 向こうの方から来たね、今お嫁さんに来て、今もう77~78ですよね、その人が言ってましたよ、 来た頃の賢治先生はさっぱり評判もなにも良くないんだって。立派な宮澤家にとついで来たのに、宮澤先生は気の毒だな、あれでは 宮澤家ダメになるダメになると、こう言われたんですよ。
 いや私は、ここのところから来た私は嫁なんですが、よそから来た私たちに本当に宮澤家というあんな立派なところから、宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて、まったく気の毒だ気の毒だとみんなが言っとたというけど、本当に言ってましたよ。
 だから私は今不思議で不思議でならない。その人が今素晴らしいでしょう。どういうことですか。世の中が本当の姿が今出てるんですよ。
 花売りに行ってみたり、後にリヤカーなんかで引っぱってやったかな、そしてそれもね皆さんにくれてやったそうですね。だからあれ見てるとね、貰った人は良かったもしれないが、あれでは商売もなにも出来ないんじゃないかというような考え方やらなにやら。ああいう息子じゃ身上もたない、カマド返しだとかということ。
《小野寺政太郎》(大正11年3月卒、湯本出身)の証言
*賢治先生からイモチ病対策を教わったことがあった。具体的には、食塩を撒布するということだったはずだ。
*私が知っているのは一ヶ所だけだが、無料の肥料設計所を花巻の花巻の郡役所の脇にあった土木管区でやった。
*下根子桜にいた時、値段の安い「メヌケ」を食べていた。
*「下の畑」の川の側に小屋を建てていた。    
以上
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