みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験<ちゑに結婚を申し込んだ賢治>

2014-02-12 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
ちゑとの結婚を決意
吉田 さて思考実験の続きだが、賢治が昭和6年9月に東京に「家出」をしようと思ったのは、もちろんちゑと結婚しようと思ったからだ。
鈴木 たしかにそう言われてみれば、先に引用した「昭和6年7月7日の日記」によれば、
   伊藤さんと結婚するかも知れません
とほのめかし、ちゑのことを
 ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです
と認識し、しかも
 禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです
と悔いていたようだからこの頃になると賢治は独身主義を棄て、賢治はちゑならば
   自分のところにくるなら、心中のかくごで
来てくれると思っていた節もあり、賢治はいよいよちゑと結婚しようと決意した、という可能性はないとは言えない。
吉田 しかも「『三原三部』の人」によれば、
 けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがって、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう。<*5>
というようなところまでも賢治は考えていたようだからな。 
 そこで賢治はちゑとの結婚を決意し、東京に出て「東北砕石工場」の代理店を開いて化粧煉瓦を売りながら生計を立て、「日常生活をいたわり合」いながらちゑと一緒に暮らそうと具体的な生活設計を立てた。
 そして昭和6年9月19日、化粧煉瓦を詰めたトランクを持って花巻を後にした。
荒木 最後の部分だけはわかるけど、その前の部分はな?
結婚申し込みと拒絶
吉田 まあまあ、単なる思考実験だ。続けよう。
 もちろん、上京した賢治はいの一番にちゑの許を訪ねてその決意をちゑに伝え、結婚しようと切り出した。ところが、『ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです』と認識していた賢治だったのだが、先に明らかにしたようにちゑは賢治と結婚するつもりは全くなかったから、きっぱりと断った。
鈴木 しかも、兄七雄が急逝したばかりだからなおさらに、きっぱりとその申し出を断ったということもありかな。
吉田 それもあると思う。
 賢治とすれば、ちゑとならば『世の中の結婚とは一寸ちがって、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう』というような結婚生活を思い描いていたし、なおかつ『どこにもいかないで』ちゑはそれを待っているとばかり思い込んでいたから、予想だにしなかったちゑの拒絶に周章狼狽、愕然とした。
 しかし賢治とすれば出奔にも準ずるような「家出」の覚悟だったから、今更おめおめと実家に戻るというところまでは気持ちの整理もつかず、貸屋探しを菊池武雄に依頼した。
荒木 そうか。「家出」の覚悟だったからこそ当初は、上京して直ぐに熱発しても頑なに実家に戻ることを拒み、なおかつ東京で住む家まで探していた、ということか。
鈴木 それにしてもなあ、ちゑとならば結婚してもいいと覚悟を決めて折角「家出」までして来た賢治とすれば、それが完全に裏切られたと受け取っただろうな。
吉田 そのせいもあって緊張の糸が切れてしまった賢治は、もともと体調不十分だったこともあって気力も失せ、途端に発熱、床に伏した。
荒木 これで何もかも終わり、賢治は夢も希望も失ってしまってもはや生きる望みもなくなり、あの「遺書」を書いた。いや待て待て、これはやはりないな。あれぐらいの熱が続いたからといって「遺書」を書くわけがないのと同じように、女に振られたぐらいで自殺するような賢治ではないはずだから、この時に賢治が「遺書」など書くわけがない。
吉田 やはり、あれはあくまでも「家出」の決意書だったと僕は思うね。
 さて、連日の高熱で床に伏しながら賢治は今後のことに思いを巡らしたが、もはやちゑとの結婚の計画も頓挫した、「家出」をする意味もなくなってしまった。当然東京にいる必要もなくなってしまった。切羽詰まってしまった。
鈴木 そういば、9月27日に賢治は父政次郎へ
 もう私も終わりと思いますので最後にお父さんの御聲をきゝたくなつたから……
             <『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)22pより>
と電話したようだから、その時にどれほどの病状だったかはわからないにしても、精神的には賢治がとことんまで追い込まれていたということはあるだろうな。
吉田 その電話をうけて父は即刻帰花するようにと厳命、賢治は後ろ髪引かれる思いで帰花し、再び実家で病臥した。
 ちなみにこの時花巻の戻った賢治は父政次郎に何と言ったか。小倉豊文は『「雨ニモマケズ手帳」新考』に
 賢治はこの時はじめて父に向かって「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という意味の言葉を発したという。
               <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)24pより>
と記している。
荒木 もし、この謝罪の文言がそのとおりであったとすれば、この時の賢治は「家出」という決意をして上京したという吉田の「私見」が、俄然説得力を持っていると思えてきた。
〔聖女のさまして…〕の「聖女」はちゑ
吉田 そして、実家で病に伏せながら賢治は『雨ニモマケズ手帳』の実質的な一頁に
    昭和六年九月廿日
    再び
    東京にて発熱。

というように、<三回目の「家出」>のことをまず書いた。
 そしてこの手帳を書き進めているうちに、ちゑの方も賢治とならば結婚してもいいと思っているものとばかり思い込んでいた賢治だったが、実際に申し込んだところにべもなく断られてしまって、ちゑに一方的に裏切られたという賢治の想いが日に日に募ってきて病臥中の賢治自身を苛み、次第に溜まってくるフラストレーションがついに爆発、10月24日「ななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕を『雨ニモマケズ手帳』に書いてしまった。
荒木 したがって、賢治がこの時に「聖女のさましてちかづけるもの」と詠んだ女性は伊藤ちゑのことだったと、そういいたいのだな。
吉田 前にも少し言ったように、もちろん高瀬露はクリスチャンだから一般に〔聖女のさましてちかづけるもの〕の「聖女」とは露のことと決めつけがちで、実際殆どの人がそう思っているようだ。
 だが、もしその論理でいうならば露は「…さまして」ではなく、ずばりなのだからその場合には、
   聖女ちかづける
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも

というように、理屈上はならねばならぬ。
 また、その女性が仮に露だとすれば、「聖女のさまして」よりはズバリ「聖女」とみなされた露がかくの如き忌まわしき行為をするということになるのだから、ズバリの方がより辛辣に揶揄できることになって、その方が賢治としても清々するはずだ。
荒木 ところが、実際はあくまでも「さまして」だから、その点から見ても露ではない可能性が高いということな。
鈴木 一方のちゑであれば、まさしく「聖女のような人」となる。なぜならば以前にも引用したように、いみじくも賢治が
 あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。
とセルギー神父の話を引き合いに出して、賢治はちゑのことを
   おれは結婚するとすれば、あの女性だな。
と藤原嘉藤治に言っているくらいだから、まさしく
   ちゑ=聖女のような女性
だ。したがって、もしそのような女性から仮に裏切られてしまったと賢治が思い詰めたとすれば、まさに
   ちゑ=聖女のさましてちかづけるもの
と言い募ってしまいたくなるのも理屈としては成り立つ。
露の関登久也宅訪問
吉田 それと相前後して、来年、つまり昭和7年の春には小笠原牧夫と結婚の決意を固めた露が、昭和6年の10月4日に花巻高等女学校時代からの友人であるナヲの許を訪ねてその旨を報告。
 そこへたまたまナヲの母ヤスがやって来た。甥である賢治の結婚話のトラブルを聞き知っていたのだがその詳細までは承知していなかったヤスは、そのトラブル相手を露と誤解して怒った。そして、そんなことだったら、賢治があなた(露)にやったものを一切返せと迫った。そのやりとりを見ていた徳弥は、義母の性格を知っているがゆえに「女といふものははかなきもの也」と日記に記した。
 一方、そう言われた露は、賢治からかつて貰っていた本を持参して翌々日また関の家にやって来て、この本を賢治に返して欲しいと、賢治の従妹でもあり露の友人でもあるナヲにお願いして帰って行った。
 だいたいこんな顛末がまあ一つの可能性として浮かび上がってる。
鈴木 流れから言えばおのずから大体こうなるだろう、思考実験としてはな。
吉田 以上、鈴木の好きな思考実験を僕も真似てみた。
〔聖女のさまして…〕の「聖女」は露とは限らない
荒木 いいんじゃねぇ、なかなか説得力がある思考実験だった。
 折角、<三回目の「家出」>をしてまでちゑと結婚しようと思って上京したのに、ちゑに一方的に裏切られてしまったというちゑへの恨みと怨念が「伏線」となって、そこへもしかすると、露が小笠原牧夫と来年春結婚するという噂が耳に入り、あるいはそれこそ結婚報告旁々賢治の病気見舞いに来た露の来訪もまたこれあり、帰花してから約1ヶ月後にますます募ってくる苛立ちから来る恨みと憎しみを込めて〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだという可能性が少なからずあるということがわかった。
 だからこのことは思考実験という範疇にとどまらず、一つの可能性として実際にあり得たということだということもわかった。
鈴木 だから、〔聖女のさまして…〕の「聖女」は露とは限らない。この「聖女」とはちゑのことかもしれないし、ちゑと露の二人のことかもしれないし、はたまたちゑでも露でも全くないかもしれないということになる。
吉田 またそもそも、それぞれ
 露 :賢治の方から詐病までして拒絶したといわれている露に対して約4年後
 ちゑ:結婚するかもしれませんと賢治が言っていたちゑに対して約2ヶ月半後
となるどちらの女性に対して、佐藤勝治が言うところの「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を当てこすりで詠むのかというと、その可能性は
   ちゑ≫露
となることは明らかであろう。
 言い換えれば、詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕の「聖女」が露であるという可能性は否定しないが、そうでない可能性が、それもかなりの程度あるということが言える以上、この詩が<仮説:露は聖女だった>の反例にはならない、という当たり前のことが言える。

<*5:投稿者註>
 牛どん屋で畫飯を食べながら、伊藤さんと結婚するかも知れませんといわれ、けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがって、一旦からだをこわした私ですから、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう。――というような意味のことをいわれたのでした。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)114p~より>

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