みちのくの山野草

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4239 「再ビ東京ニテ發熱」の解釈の仕方

2014-11-10 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「再ビ」は「發熱」にかゝる?
 小倉豊文が次のようなことを述べていた。
 神田駿河臺の八幡館に入ると同時に、激しい發熱の為にすぐに床に就かねばならなくなつてしまつた。手帳に「昭和六年九月廿日再ビ東京ニテ發熱」とあるのは、この時のことを指しているのである。「再ビ」は「發熱」にかゝるもので、前回の發熱は昭和三年の八月のそれを意味するものであろう。
              <『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)22pより>
 このことに関連しては、以前“思考実験<賢治三回目の「家出」>”でも触れたことで、あの『雨ニモマケズ手帳』の
【『雨ニモマケズ手帳』の一、二頁】

        <『復元版「雨ニモマケズ手帳」』(筑摩書房)より>
に、というように書き込んである。二頁目の中の大太文字だけを文字に起こしてみれば
    昭和六年九月廿日
    再ビ
    東京ニテ発熱。

となっている。
 しかしこの度、この小倉の解釈を知って果たしてそのとおりなのだろうかと私は訝ってしまった。

素直に解釈すれば
 なぜならば、
 「再ビ」は「發熱」にかゝるもので、前回の發熱は昭和三年の八月のそれを意味するものであろう。
という解釈よりは、素直に解釈すれば
    「再ビ」は「東京」にかかるもの
であり、その意味は
    以前にも東京で発熱したことがあったが、また東京で発熱してしまった。
となると思うからである。
 ではその「以前にも東京で発熱」とは何を指すのかというと、最愛の愛弟子の一人澤里武治が
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年2月)60p~より>
と語っている中の、「はげしい勉強に遂に御病氣になられ」た際のことを賢治は指していたのではなかろうか。
 つまり先に私が実証したように、
 賢治は昭和2年11月から約3ヶ月間、チェロの上達のために滞京していたが、その猛練習がたたって「御病気」になってしまった。
ことを指しているのではなかろうか。なおもちろん、「前回の發熱は昭和三年の八月のそれ」は下根子桜に居たときのものであり、東京でではない。
 したがって、素直に解釈すればこのように当てはまりそうな以前の東京での発熱があるわけだから、無理に小倉のように「「再ビ」は「發熱」にかゝるもので」と解釈せずともよいのではなかろうか。そもそも、「前回の發熱は昭和三年の八月のそれ」以外に、花巻でかつて賢治が「發熱」したことが一切なかったということは常識的に考えてあり得ないだろう。もしそのような賢治の「發熱」が昭和3年の8月の唯一回だけであったとしたならば先の小倉の論理は成り立つだろうけれども…。
 言い方を換えれば、この「昭和六年九月廿日再ビ東京ニテ發熱」という賢治の記述そのものが、私がかつて『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』において検証できた仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里1人に見送られながらチェロを持って上京、約3ヶ弱滞京してチェロを猛勉強したが、その結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣
を傍証しているとは言えないだろうか。

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