みちのくの山野草

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4232 賢治の水沢伊藤家訪問

2014-11-07 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
奥田弘の証言によれば
 多田幸正氏によれば、
 奥田弘の伝える菊池武雄の証言によれば、チヱが「兄嫁のナホと共に羅須地人協会に賢治を訪問(30)」したことがあるという。
あるいは、
 チヱの姪ルツ(ママ)の証言によれば、賢治も水沢の伊藤家をたびたび訪れていたらしい(31)
              <共に『宮沢賢治とベートーヴェン』(多田幸正著、洋々社)206pより>
ということであり、(30)、(31)の註はともに
 奥田弘「イーハトーヴ地理(12) 大島」(『新修宮沢賢治全集』第七巻)「月報」、筑摩書房、昭和五十五年)
              <『宮沢賢治とベートーヴェン』(多田幸正著、洋々社)241pより>
となっていた。
 そこで、「イーハトーヴ地理(12) 大島」の8pを確認してみたところ、以下のようなことなどが述べられている。
   大島
                                     奥田 弘
 宮沢賢治が、詩篇「三原三部」の背景となった、伊藤七雄・チヱ兄妹の住む伊豆大島に旅立ったのは、以前、某誌でもふれておいたことであるが、兄七雄が企図していた大島農芸学校開設の相談に応ずるためであったという。…(略)…
 妹チヱは、自ら律すること厳しく、森荘已池の『宮沢賢治と三人の女性』(昭24・1人文書房)公刊後は、人目をさけ、口を緘しているので、この書以上に、賢治との交流については知り得べくもない。しかし、賢治の友人菊池武雄の証言によると、同女は、兄嫁ナホとともに、羅須地人協会に賢治を訪問している。また、同女姪ツルの証言によると、逆に賢治の方も、何回か岩手県水沢の伊藤家を訪問している。前者に関して言えば、チヱの側には、秘められた見合いの意図があったと聞いている。

巷間伝わっていること以上のことがあった?
 ということであれば、上掲の引用文に関して私は次のような3点に注目したい。
(1) 昭和3年6月の「伊豆大島行」は兄七雄が企図していた大島農芸学校開設の相談に応ずるためであった。
(2) 菊池武雄の証言によると、ちゑは羅須地人協会に賢治を訪問していた。
(3) ちゑの姪ツルの証言によると、賢治も水沢の伊藤家を何回か訪問していた。
 そこでまず(1)に関してだが、ちゑ自身が10月29日付藤原嘉藤治宛書簡
 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。
と言い切っているし、萩原昌好が『宮沢賢治「修羅」への旅』の中で、昭和3年の「伊豆大島行」に関して時得孝良は学生時代にちゑを訪ねて本人から次のような聞書きを得ていて、
 賢治に関する研究書や評論に、ちゑさんと賢治の関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和三年六月に大島で会った時も「おはようございます」「さようなら」といった程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものはなかった。
              <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)323p~より>
ということだから、その上にこの度の奥田の記述、つまりこのような菊池武雄の証言があったということを知ったいまは、真相はやはりこの“(1)”であったと言えるだろう。したがって、たとえば
 自分の本当の気持ち、賢治その人への思いをひたすら隠蔽しようとしていたためではないだろうか、チヱは賢治との関係をあくまでも二人だけの秘められた関係、秘められた恋として自分の胸のうちにとどめておきたかったのであり
などというようなことはありえなかったであろう。
 次に(3)だが、このことに関しては以前“賢治は水沢に伊藤ちゑを訪ねていた”でも触れたことだが、その訪問の際に賢治がちゑと直接見えていたかどうかはさておき、少なくとも賢治は水沢の伊藤家を複数回訪ねていたということがこれでほぼ間違いなかろう。すると、ツルの証言「普段の作業衣で」についても信憑性が増してきたということも言えよう。
 最後に残った(2)についてだが、賢治とちゑの見合いの仲立ちをした菊池の証言だし、「兄嫁ナホとともに」という具体的な記述もあるから、一概には否定はしきれなさそうだ。
 以上の3つの事柄から、どうやらその実態は巷間伝わっている以上のことがちゑと賢治との間にはあったということがこれでほぼ確実になったと言えるだろう。

やはりかつての賢治ではなくなっていた
 そして、森荘已池の「昭和六年七月七日の日記」や佐藤隆房の『宮澤賢治』によれば、どうやら賢治はちゑに対して
 ですが、ずつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ。
と思っていた節があるが、ちゑ自身が昭和16年1月28日付森宛書簡で
    (あの頃私の家であの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)
と括弧書きで書き添えているということからだけでなく、実際には伊藤家側では賢治との結婚に反対だったということは私自身もその関係者の一人から聞いているから、賢治は何を拠り所としてこう言ったのかが私はわからずにいた。ところが、今回奥田の「イーハトーヴ地理(12) 大島」における上掲証言を知って、この賢治の発言はどうやら彼の強い思い込みにすぎなかったのではなかろうかとますます思えてきた。
 ということは、やはり昭和6年7月7日頃になると賢治はかつての賢治とは全く違っていたと判断せざるを得ないようだ。

やはり気になること
 なお、これまでも少なからぬ賢治周縁の人たちがある時期から口を緘してしまったといういことを私は知っているだけに、奥田がちゑは「口を緘しているので」と述べていることを今回新たに知って、このことが改めて気になる。

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