みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験<賢治三回目の「家出」>

2014-02-12 07:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》

 これは“思考実験<賢治三回目の「家出」>(#1)”及び“同(#2)”を一つにまとめたものであり、以前のものは近々消去する予定である。

伊藤ちゑとの結婚話が「伏線」
吉田 先ずはそのために、以前鈴木が作った時系列に今までのことなども付け加えてくれないかな。
鈴木 どこどこ、そうだな~
 大正15年秋~昭和2年夏:下根子桜の賢治の許に露出入り(菊池映一氏の証言より)。
 昭和2年秋   :伊藤ちゑ兄と共に来花、賢治と会う(10月29日付藤原嘉藤治宛書簡より)。
 昭和3年6月  :賢治伊豆大島行。
 同時期帰花後 :大島から戻った賢治は嘉藤治に、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったという。<*4>
 昭和3年8月~ :賢治実家に戻り、後病臥。
         …(略)… 
 昭和6年7月7日 : 伊藤ちゑとの結婚話がまた持ち上がっていることを賢治自身が語った。
 同 年9月18日 : 40㌔あまりのトランクを持って上京。
 同 年9月20日 : 着京。以降滞京。発熱。
 同 年9月28日 :東京から花巻に戻り、病臥。
 同 年10月4日 :「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話
 同 年10月6日 :「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく
 同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの
  推定同時期  :〔最も親しき友らにさへこれを秘して
  推定同時期  :賢治をある女性が見舞っていた。
 同 年11月3日 :〔雨ニモマケズ
関連する事柄を付け加えればまあこんなところかな。
吉田 僕もこのような時系列を想定していて、この中のポイントは
   昭和6年7月7日に賢治が語った、また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話
だと思ったんだ。言い換えれば、これが「伏線」となって詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕が詠まれたのではなかろうかと思い付いたのだ。
荒木 もう少し具体的に説明してくれ。
ある一つの思考実験開始
吉田 これはあくまでも僕の推測であり、これから述べることはある一つの思考実験だがそれでもいいか。
荒木 中身によりけりだがな。さあ、どうぞ。
吉田 先に荒木も訝ったように、〔聖女のさまして…〕の「聖女」とははたして高瀬露なのか? 僕もどうもそうとばかりは言い切れないと考えていた。
 なぜならば、昭和2年の夏以降「先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました」と露は言っているということだし、その頃のことになると思うのだが賢治は露を拒絶するようになり、あげく自分は「癩病」だと詐病し、その結果父政次郎から厳しく叱責されたということは事実であるとして間違いなさそうだ。
 しかし、その頃から約4年もの時を経た昭和6年の10月に、まさしく佐藤勝治も言っているように「このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」ような詩を露に当て付けて詠むと思うか。常識的にあり得ないだろう。
荒木 そりゃあたしかにおかしいことで、常識的にはあり得ねぇべ。
鈴木 そうなんだよ。巷間伝わっている賢治の伝記において、常識的におかしいと思ったところは実はやはりおかしい、ということが私は幾度かあったからな…
荒木 あっわがった。〔聖女のさまして…〕の「聖女」とは露のことではなくてちゑのことであり、ちゑとの結婚にまんざらでもないということが推察される「昭和6年7月7日の日記」に出てくるような賢治の想いが「伏線」となって、賢治をして〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠ましめた、ってわけな。
吉田 まあだいたいそのあたりだ。
 昭和6年頃になると、賢治自身も『「私も随分かわつたでしょう、変節したでしょう』というくらいだから、かつての賢治とはすっかり様変わりしてしまった。独身主義ももうやめた。なぜならば、
 「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北砕石工場の技師技師となり、その製造を直接指導し、出來炭酸石灰を販賣して歩いていた。最後の健康な時代であつた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)104pより>
とMが証言しているからだ。
 このように独身主義からはおさらばした賢治は、前々からちゑとならば結婚してもいいと思っていたがゆえに、再燃したちゑとの結婚話を前にして「私は結婚するかもしれません――」と7月にはMに喋った。
 そして、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京した。
昭和6年上京当時ちゑは東京にいた
鈴木 おっと、それはまさかの展開だな。その時の上京は、「化粧煉瓦」の販売店獲得のためばかりではなかったというわけだな。
荒木 そっか、東北砕石工場の製品売込みのためだったとばかり俺も思っていたが、それだけではなくて、案外伊藤ちゑと会ってその結婚話を進めるためでもあったということな。だけど、その時に賢治がちゑの住んでいた伊豆大島まで行ったという証言や記述はどこにもないはずだが。
吉田 いやぁ、違うんだなそれが。その頃ちゑは東京に戻っていたし、僕はこの時の上京はまたぞろ賢治が「家出」をするためだったと推測している。
荒木 おいおい、思考実験とはいえそれはあまりにも穏やかな物言いじゃないぞ。
吉田 まずは前者について。澤村修治氏が『宮澤賢治と幻の恋人』の中でこう述べている。
 これでは学校の経営もままならない。そうした不如意のあげく、同年八月一三日、七雄は遂に逝去する。…(略)…
 兄の逝去とともにチヱは東京に戻る。休職していた双葉保育園に保母として復帰。
              <『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)182pより> 
そしてここでいう「同年八月一三日」とは昭和6年8月13日のことだということが、同書から判る。
荒木 そっか、昭和6年の賢治の上京時には既に七雄は亡くなっており、ちゑは東京に戻って住んでいたのか。
鈴木 となれば伊豆大島の場合とは違って、上京した賢治ならば会おうと思えば比較的容易に伊藤ちゑに会えたことになるな。
賢治は実質「家出」を目論んだ
吉田 では次は後者について。
 『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、290p~)には、
 賢治が熱を出して寝ているという八幡館から電話連絡が入った菊池武雄が駆けつけて<*1>、
 「花巻のおうちへ知らせよう。」
と促したところ賢治は
 「いやそれは絶対困ります。絶対帰りません。知らせないでください。
と応えた。さらには、
 「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわります。
と妙なことを言った。
 そこで、どうも賢治は花巻に帰りたくないのだろうと判断した菊池は、武蔵野に小さい貸家を見つけ出して賢治にそのことを知らせた。
というような貸屋探しが具体的そこに書かれている。
鈴木 つまり賢治はこの時花巻に戻るつもりはなく、このまま東京にいて托鉢などもして回りたい。ついては住む家を探している、というようなことなどを言ったものだから菊池は貸家を見つけてやったという次第か。なんだか、たしかに大正10年の時の「家出」のにおいが多少してくる。
荒木 そうか。思考実験としては、賢治は実質的に「家出」を目論んで上京したと言いたいわけだ。
鈴木 しかし、賢治はこの上京の折り直ぐに、たしか9月21日に「遺書」を書いていたはずで、着京即重態に陥り死を覚悟したと思うのだが。
「遺書」かそれとも「家出」の決意か
吉田 たしかに定説ではそうなっているがそれは「遺書」ではないという見方も可能ではなかろうか。ちなみにその「遺書」の中身は
〔393〕(昭和六年) 年九月二十一日 宮澤政次郎・イチあて 封書
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
  九月廿一日
                                                       賢治
父上様
母上様
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)379pより>
ということであり、その現物の一部は
【「賢治遺書」の写真】

              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)口絵より>
となっているのだそうだ。もちろん便箋はもう一枚あり、そこには「九月廿一日」の記載がある。
荒木 あっ、そうか奇しくも賢治の命日と同じだ。
吉田 だからなおさら「遺書」と思いたくもなるが日にちの一致はそれとは無関係なこと。それよりは、この文面からは、花巻から離れて「家出」をすることの決心、決して花巻の実家に戻ることはないという自分自身に向けたその決意表明だったととれなくもない。
鈴木 たしかに、着京したと思われるのが9月20日、ところがその翌日に突如賢治は重篤となったので死を覚悟してこの「遺書」を書いた、ということは言われてみればたしかに奇妙だし不自然なことだ。
「和とぢ」の本はどこで菊池に渡したか
荒木 そういえばさっき名前の挙がった菊池武雄とは、この上京の折りに賢治が「和とぢ」の本をプレゼントしたという人のことだよな。そうすると、賢治は何時どこでそれを菊池に渡したのだろうか。即重篤になったというのならばその機会がなかっただろうに。
吉田 そのことについては菊池自身が『宮澤賢治研究』所収の「賢治さんを想ひ出す」の中でこう言っている。
 その後去年の春突然駿河臺のある旅館から電話で「宮澤さんといふ方が上京していま風邪を引いて休んで居られる」と知らせてくれたので行つて見たら、いつものニコニコした顔で床に就いて居られたが私は容易でないことを直感しました。その時「お土産に持つて來たのだけれども形見になるかも知れぬ」といつて私にレコード(死と永生)二枚と○本などをくれました。私は何とかして健康回復のために力になり度いと願つたけれど、一つは賢治さんの性質も解つてゐるからそれも尊重したし、私も微力と生まれつきの不親切者故、なにもしてあげられませんでした。
               <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p~より>
荒木 あれっここには「和とぢ」の本などではなくて、プレゼントしたのは「○本」とあるけど? あっそうか、この「○本」は「和とぢ」の本つまり「春本」を憚った表現か。
鈴木 でも変だな。さっき吉田が教えてくれた堀尾の記述内容だと菊池は結構賢治の世話を焼いているのに、こちらの菊池の証言によれば菊池は何もしてやれなかったいうことだから矛盾がある。
深沢紅子の別な証言
吉田 矛盾ということで言えば、このことに関しては、深沢紅子の証言とも矛盾している。深沢は自分の随筆集『追憶の詩人たち』所収の「一ぱいの水-賢治との出会い」の中でたしか次のように語っているはずだ。
 昭和6年当時吉祥寺に住んでいた私の家に賢治がやって来て、
宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これを預かってください
と言われたと。
鈴木 えっ! 深沢紅子は菊池武雄と隣同士だったのか。
吉田 そうだよ。たしかこうも語っていたはずだ。
 菊池さんとは私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいた。
鈴木 じぇじぇ、菊池と深沢夫婦はそんなに懇意だったのか。こうなればはっきり言ってしまうけど、何を隠そう、例の『私×××コ詩人とお見合いしたのよ』と伊藤ちゑが教えた相手は実は深沢紅子に対してだったのだ。
吉田 そうだったのか、な~るほどな。
鈴木 もちろん菊池は見合いの世話をしたくらいだからちゑとは何らかの繋がりはあっのだろうが、いままでなぜ深沢にちゑがこんなことを、しかもさらりと言ったのかその背景がいまひとつわからずにいた。それが、深沢と菊池は親しかったのだから
    深沢紅子⇔菊池武雄⇔伊藤ちゑ
という繋がりができていたのか。これで腑に落ちた。
吉田 しかも、伊藤ちゑは1921年盛岡高等女学校卒( 『宮澤賢治の幻の恋人』165p )、一方の深沢(四戸)紅子も同じく盛岡高等女学校1919年卒( 『追憶の詩人たち』巻末 )だから同窓生、高等女学校の就学期間は5年間なのでちゑと深沢は3年間同時期に盛岡高女に通っていたと考えられる。
 だから、
    菊池武雄⇔画家⇔深沢紅子⇔同窓生⇔伊藤ちゑ
という繋がりもあった。
鈴木 なるほど、そうなると菊池がちゑのお見合いをお膳立てしたということも頷ける。
賢治は本を吉祥寺で渡した
吉田 そこで先程の荒木の質問の半分に対する答にもなると思うのだが、深沢はたしかこんなことも語っていたはずだ。
 賢治はその時、『これを預かってください』と言って包みを二つ差し出して、一杯の水を飲んで帰っていった。
 夕方吉祥寺に戻った菊池がその二つの包みを開けるのを見ていたならば、小さい方の包みは「和とぢ」の本であり、もう一つの方はレコードだった。菊池は、「何で俺にこんなものくれたべなあ」とお国なまりの独り言を言った。
              <いずれも『追憶の詩人たち』(深沢紅子著、教育出版センター)124p~より>
などと。
鈴木 たしかに菊池と深沢の間には矛盾があるが、両者を比較すればこの件に関してはどうやら深沢の証言の方が信憑性が高いな。さっきの矛盾、今度の矛盾ともに菊池絡みだからな。ここは信頼度が高いのは深沢の方とならざるを得ないだろうから、吉祥寺でとなるか。もしかすると、菊池は何かを庇っているのかもしれないな。
荒木 つまり、『賢治はどこでそれを渡したか』の答は駿河台の八幡館でではなくて吉祥寺でだ、ということか。
吉田 そしてほら、この時の鈴木東藏宛書簡にこう書いてある。
〔395〕(昭和六年) 〔九月二五日または二十六日〕鈴木東藏あて 封書〔封筒ナシ〕
拝啓 一向に御便りも申上ずお待ち兼ねの事と存候 実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之今后の経過は一寸予期付き難く候へ共当地には友人も有之候間数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり運を天に任せて結果を見るべく…(略)…
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)380p~より>
と。
荒木 となれば、「廿日夜烈しく発熱致し」ということだから賢治は9月20日の夜からひどい熱発、その後は床に就いていたようだから、その前に吉祥寺を訪れていたことになり、それはやはり9月20日しかあり得ないな。
鈴木 それにほら、9月20日付鈴木東藏宛書簡〔392〕方も見てみると
    午后当地に着
とあるから20日の午後に着京しているようなので、その足で吉祥寺へ行ったかもしれないな。
吉祥寺行きは9月20日か同21日
吉田 実はこの件に関して、賢治はあの『雨ニモマケズ手帳』の二頁目にも次のように書き込んでいる。
【『雨ニモマケズ手帳』の一、二頁】

        <『復元版「雨ニモマケズ手帳」』(筑摩書房)より>
そこで、この中の大太文字だけを文字に起こしてみれば
    昭和六年九月廿日
    再び
    東京にて発熱。

となる。だから、賢治はやはり9月20日に突如「熱発」したとするしかないと、以前の僕はそう考えていた。
荒木 実はそうとも言えないというのか?
吉田 うん。というのも、この頃の賢治の体温はどうだったかというと、『解説 復元版 宮澤賢治手帳』には
    十九日  三七.二
    二十日  三七.三
    二十一日 三七.九

        <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(解説小倉豊文、筑摩書房)4pより>
    二十二日 三八.九(ママ)
    二十三日 三八.二
    二十四日 三八.二

        <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(解説小倉豊文、筑摩書房)6pより>
という記載がある。
荒木 なになにこんなことまで小倉は調べてるんだ。それしても、21日までの体温はいずれも37℃台じゃないか。賢治は「九月廿一日」付の「遺書」を書いたというのが通説のようだが、これぽっちの「高熱」がたった二日三日続いただけであのような「遺書」を書くか? 書くわけなぇべ。あれはもはや「遺書」などではないということだな。
吉田 うん、それはかなりの確度で言えると思う。なぜなら、実はこのときの賢治の体温が『兄妹像手帳』に賢治自身の手で次のようにメモされているからだ。
【『兄妹像手帳』の一四七、一四八頁】

               <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)134pより>
荒木 ということは、先程の俺の質問の残り半分の答は、
 少なくとも9月22日以降の高熱から判断すれば22日以降に吉祥寺に行ったことはまずなかろうことと、着京が9月20日であることは間違いなさそうだから、吉祥寺行きは20日か21日であろう。
ということか。
鈴木 そうか、21日の可能性もありか。
賢治三回の「家出」
吉田 いずれ、賢治の体温が高かったとはいえこの両日ならばまだ37℃台、無理すれば吉祥寺に行けないこともないから、このいずれかの日に賢治は少なくとも吉祥寺の菊池武雄の家に行き、また当時国分寺辺りに住んでいたと思われる伊藤ちゑの許へも訪ねて行った。まあ、これらはあくまでも思考実験上でのことだけど。
 ついでに言えば、場合によっては、この東藏宛書簡〔395〕中の「廿日夜烈しく発熱致し…熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり」は賢治の方便であった可能性もあるということも視野に入れる必要があるかもしれん。
荒木 どういうことだ?
吉田 他でもない、そうすれば少なくとも取り敢えず家に戻らなくてもよいことになるから実質的な「家出」ができるだろう。裏を返せば、この東藏宛書簡は、実質的に賢治は三回目の「家出」をする覚悟であったということの一つの証左となりそうな気もする。
鈴木 それはちょっと論理の飛躍で、無理筋だと思うがな。う~む、段々何が何だか和からなくなってきた。
荒木 ところで賢治三回目の「家出」ということだけど、最初のはなんとなくわかるけど、後の2回はどういうことなんだ?
吉田 それは、最初の一回目が例の「突然ばったり落ちた」という、
 その時頭の上の棚から御書が二冊共ばつたり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐに臺所へ行つて手を洗ひ御本尊を箱に納め奉り御書と一緒に包み洋傘を一本持つて急いで店から出ました。
              <『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)47pより>
と関登久也宛書簡に書いてあるような、大正10年1月の衝動的で突発的な「家出」。
 二回目が、これもまた突如花農の職を辞して下根子桜で暮らしを始めたことも、確たる見通しもないままのそれだったのだから僕に言わせれば実質的には「家出」で、これ。
 そして三回目が、この昭和6年9月の「上京」だ。ただし殆どの人はそうは思わんだろうけどな。
荒木 いや、三回目も吉田に段々刷り込まれてきたのでそれもありかなと思うようになってしまった。また実際、賢治は天才故の直情径行なところがあるし、二度あることは三度あるとも言うしな。
吉田 あっと、忘れていた。僕とやや似たことを小倉豊文が言っている。
 最後の上京にしても、その前後二回の家を出ての独立的生活にしても、賢治にとって実に思いで深いものであったろう。賢治はその都度命がけの「出家」を決行したのである。
               <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)47pより>
と。ただし、こちらは文字が逆で「出家」だけど。
鈴木 この三回の「家出」にしてもあるいは「出家」にしても、まさしく不羈奔放な賢治の面目躍如というところかな。
荒木 皮肉か?
鈴木 とんでもない、このような賢治だからこそあれだけのことが出来たということだよ。あの『春と修羅』のようなものをスケッチ出来る人が今後現れることなど二度とないと思ってる。

<*1:註>
藤原 菊池武雄さんも賢治の信頼する大事な人。東京で賢治が病気になってもうだめだという時、この人に逢いたいといった。それ以上の信頼はないでしょう。
吉見 「注文の多い料理店」の装丁と挿絵をやった人ですね。
藤原 そのとき菊池さんは東京に住んでいた。賢治には親類も、友人も誰もいないので、菊池君がかけつけた。

              <『北流<第八号>』(北流編集委員会、昭和49年10月発行)101pより> 

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