みちのくの山野草

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2940 宮澤安太郎についてちょっと

2012-10-09 09:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
 以前、賢治と佐伯郁郎を繋ぐ人物として宮澤安太郎がいるということを述べた。この宮澤安太郎に関する詳述はあまりないようだが、調べてみたところ現時点では以下のようなものが見つかったので報告しておきたい。

 まず挙げたいのが佐藤司氏の次のような記述である。なんと安太郎はあの「十字屋」の店主であったことが解った。
宮沢安太郎 明三五~昭和一九。従弟、父政次郎の弟(治三郎)の長男。大一〇盛岡中学校卒業。この年上京中の賢治を稲垣方に訪ねて暫く同居した。花巻町上町で「十字屋楽器店」の看板で食料品を販売、かたわら蓄音器・レコードも扱った。
<『今日の賢治先生』(佐藤司著)581pより>

 次に、『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)によれば以下のようなことも判る。
(1)大正6年
 新学期より盛岡中学に入学した弟清六、宮沢安太郎(父の弟治三郎の長男)、盛岡農学校入学の岩田磯吉(父の妹ヤスの二男)の監督という意味もあって、盛岡市内丸二九、玉井郷方(郷芳とも書く)家に下宿。
(2)同6年6月某日
 弟清六・宮沢安太郎・岩田磯吉をともない岩手山麓に遊び、路に迷って野宿。
(3)同10月下旬(あるいは中旬)
 弟清六、宮沢安太郎、岩田磯吉をつれて岩手山登山。
(4)大正7年4月5日
 太郎(安太郎のこと:投稿者註)が無事に盛岡に着いたことと、お土産の寿司を頂戴したことを父に葉書(書簡52)にて報告。
(5)大正10年3月4日
 賢治、宮澤政次郎・宮澤安太郎あて書簡(190)を出す。そのうち安太郎に関する部分等は以下の通り。
拝啓寒気尚厳敷と存侯処父上姶め皆々様御変り等も御座無く侯哉御伺ひ申上侯…(略)…次に太郎(安太郎のこと:投稿者註)様よりも御来書有之侯処大分お迷ひの様にも見受けられ侯この際一応出京侯様御命相成度私としては別段何の職業を勧める考も無之場所に就ても同様に侯。御帰正さへ相成り侯はゞ御都合次第後継希望者有之道は何業とても小生にて間に合せ申すべく侯間太郎さんには茲一ヶ月計り(余り長きは却って宜しからず侯)の間に任意の職業を断然撰定侯様御勧め被下度侯。学校、居所等もその上の事と存じ侯。一時兎に角いづれかに向ひても充分撰択の上ならざれば却って後に大破を生じ侯哉と存じ侯。尚明日又申し上げ侯。出京お許しあるならば茲三四日中に願ひ侯。
(6)昭和8年8月29日
 安太郎の二女良子をスケッチする。

 なお、書簡中の「太郎」とは「安太郎」のことのようである。また、上掲の(4)と(5)は『校本宮澤賢治全集第十三巻』、それ以外は『校本宮澤賢治全集第十四巻』の「年譜」より抜粋させてもらった。

◇平成25年4月2日追記
 森荘已池が次のようなことを著していた。
 賢治の従兄弟の安太郎(父の弟治三郎長男)が中央大学に入学、一時稲垣方に止宿した。賢治が馬鈴薯を煮て塩をつけて食べているのを見て、安太郎はおヤツだと思ったが、それが主食だったのでびっくりしたという。
            <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)244pより>

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