3 「農民詩」
さて、下根子桜時代の賢治の創作活動はどのような分野でのそれであったのだろうか。『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)によればその時代に執筆された童話は殆どなく、せいぜいあったとしても〔ある農学性の日誌〕(昭2・8・21日付以後の執筆か)と『なめとこ山の熊』(昭2頃の執筆か)の2作品しかないということになりそうだ。
一方詩に関しては、詩の創作数を「新校本年譜」を基にして月別に数え上げてみ見ると次のようになる。
よって、下根子桜時代の賢治の創作活動は童話にではなくてほぼ詩に限られていたということが言えよう。そしてこれらの多くの詩についてだが、以前述べたようにこの時期の賢治は自分のことを少なくとも「農民詩人」に近いと考えていたと思われるし、私からみればこれらの賢治の詩は、賢治がそう考えたか否かはわからぬが「農民詩」と見ることも出来ると判断している。そしてそれは私だけでなく、佐伯郁郎だってそう認識していたに違いない。なぜならば賢治の詠んだ『春と修羅第三集』所収の詩の多くは、佐伯郁郎が論じている「農民詩」に当てはまると私には思えるからである。そして、佐伯郁郎の論ずる「農民詩」は「農民文芸会」の唱える「農民詩」に他ならないことにも注意せねばならない。なお、賢治の詠んだ心象スケッチや詩がすべて「農民詩」でないことは勿論である。あくまでも下根子桜時代に詠んだ詩の多くが「農民詩」と見られないこともないという意味である。
一方このことに関しては、以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#40)〟でも触れた次のような伊藤克己の証言からもある程度裏付けられるのではなかろうか。
よって、下根子桜時代の賢治の文芸における創作活動は、傍から見れば少なくとも「農民文芸会」の唱えるところの「農民詩」を多く詠んでいたと見ることができそうだ。
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さて、下根子桜時代の賢治の創作活動はどのような分野でのそれであったのだろうか。『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)によればその時代に執筆された童話は殆どなく、せいぜいあったとしても〔ある農学性の日誌〕(昭2・8・21日付以後の執筆か)と『なめとこ山の熊』(昭2頃の執筆か)の2作品しかないということになりそうだ。
一方詩に関しては、詩の創作数を「新校本年譜」を基にして月別に数え上げてみ見ると次のようになる。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
特に昭和2年における創作数はかなり多いことが一目瞭然である。よって、下根子桜時代の賢治の創作活動は童話にではなくてほぼ詩に限られていたということが言えよう。そしてこれらの多くの詩についてだが、以前述べたようにこの時期の賢治は自分のことを少なくとも「農民詩人」に近いと考えていたと思われるし、私からみればこれらの賢治の詩は、賢治がそう考えたか否かはわからぬが「農民詩」と見ることも出来ると判断している。そしてそれは私だけでなく、佐伯郁郎だってそう認識していたに違いない。なぜならば賢治の詠んだ『春と修羅第三集』所収の詩の多くは、佐伯郁郎が論じている「農民詩」に当てはまると私には思えるからである。そして、佐伯郁郎の論ずる「農民詩」は「農民文芸会」の唱える「農民詩」に他ならないことにも注意せねばならない。なお、賢治の詠んだ心象スケッチや詩がすべて「農民詩」でないことは勿論である。あくまでも下根子桜時代に詠んだ詩の多くが「農民詩」と見られないこともないという意味である。
一方このことに関しては、以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#40)〟でも触れた次のような伊藤克己の証言からもある程度裏付けられるのではなかろうか。
ある日、午後から芸術講座(そう名称づけたわけではない)を開いたことがある。トルストイやゲーテの芸術や、農民詩について語られた。したがって私達はその当時のノートへ、羅須地人協会と書かず、農民芸術学校と書いて、自称していたものである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版、昭和14年発行)396pより>
この証言によれば、少なくとも協会員の伊藤克己としては、下根子桜で賢治から「農民詩」についての講義を受けたと認識していたことになるからである。よって、下根子桜時代の賢治の文芸における創作活動は、傍から見れば少なくとも「農民文芸会」の唱えるところの「農民詩」を多く詠んでいたと見ることができそうだ。
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