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2965 『賢治の見た夢』より

2012-10-19 09:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
 過日、シリーズ〝賢治、家の光、犬田の相似性〟を終了したのだが、その直後盛岡のある書店で『賢治の見た夢』(相川良彦著、日本経済評論社)という本が目に留まった。先のシリーズと関連することがあったし、私の知らないことを解説してくれていたので以下にその中から幾つかを紹介させてもらいたい。
当時の社会的思潮
 まずは〝第一章 宮澤賢治の農民芸術論〟の出だしは次のようなにっている。
   一 はじめに
 民衆の、民衆による芸術の創作という芸術運動は、十九世紀末~二十世紀初頭にかけて欧米で起きた。その背景には、資本主義の爛熟を反映した世紀末の退廃的芸術への疑念と、増大する労働者階級のニーズがあった。享楽本意の芸術では民衆(労働者)を充足させることが出来ない、と芸術家は感じていた。そこで芸術家主導の、人間の存在を問う民衆芸術論と芸術運動が、各国に展開されることとなった。ロシアではL・トルストイらのトルストイ主義(搾取を基礎にする旧体制の批判とキリスト教的道徳によって簡素で農的生活の実践)、イギリスでW・モリスらの有用美を追うアート&クラフト運動、フランスでR・ロランら民衆演劇(新劇)などが現れた。
 欧州の芸術運動は、ほどなく日本に輸入される。それは大正デモクラシー期の文芸刷新気運と重なった、芸術家主導の芸術運動をひき起こした。白樺派人道主義文学、民芸運動、新劇運動、赤い鳥童謡運動、農民文学、プロレタリア文学などが、それである。そして、それらはほどなく東北地方にも波及した。山形県では農民自身が農民の生活を批評的に描いた五十公野精一『農民-新生をは胎む土』(一九二六)、一九二〇年代後半の当地の労働・農民運動に参画したプロレタリア文学の金子泉・井上修吉らが登場した(大滝十二郎『近代山形の民衆と文学』一九二八)。そして、岩手県では宮澤賢治が、農民芸術概論にもとづく社会文化運動(羅須地人協会)の実践を試みたのである。全国的な社会思想の動向に触発され、生まれた地方版の芸術刷新運動の一つであったと言っていいだろう。
<『賢治の見た夢』(相川良彦著、日本経済評論社)9p~より>
 この簡潔にして明快な図式的解説を読んで、私は〝目から鱗〟であった。こういうことには殆ど無知だった私にとって、当時の社会的思潮、特に芸術運動の世界的な流れが具体的にイメージできたからである。そして、相川氏も賢治の当時の賢治の実践は「全国的な社会思想の動向に触発され、生まれた地方版の芸術刷新運動の一つであった」と位置づけていたことを知り、私は思わず膝を叩いた。そう、やはり賢治といえども〝社会思想の動向に触発され〟ていたのである、と見ていいのだ。おそらく。
近・現代詩の三つの潮流
 また、相川氏は同書の〝第五章 農民詩の系譜と文体〟の中で次のようなことも語っていた。
 (1)系譜の概念的生理
 日本の近・現代詩は、欧米の詩に触発され生まれて、三つの潮流がある。第一は、叙情(ロマンチシズム)詩の流れである。西欧の詩に触発され、旧制度から個人の解放を基調とした空想的・審美的的な浪漫主義が、新体詩という過渡的な表現形式のもとで島崎藤村により始められた。次に、韻律を求め、比喩と想像力により華麗な世界を自由口語詩の形でうたう象徴詩が、明治末から大正初期に上田敏、北原白秋、萩原朔太郎等により全盛をむかえた。…(略)…
 他方、草野心平はアナーキズム系詩人として出発したが、概して叙情的詩人と位置づけられる。叙情詩の詩壇主流には入りきれず、かといって政治的なプロレタリア詩人とは一線を画した個性的な詩人を緩やかに結集して、西欧詩の模倣によらない日本の詩の独自性を追求した。…(略)…
 なお、農民詩のジャンルにおいて、戦前期には、ワーズワースなどの詩風と山村暮鳥らが都市インテリ層から現れた。…(略)… 第二は、リアリズム詩の流れである。内訳では、明治期に一世を風靡した自然主義と大正デモクラシーとの交錯の中から生まれた民衆詩(尾崎喜八)とそれに続くアナーキズム詩、そして大正末期以降に両派の論理的・牧歌的甘さを批判し、階級史観にたって生活観や社会思想を訴える中野重治らプロレタリア詩が台頭する。
 農民詩のジャンルにおいて、民衆詩では大正末から昭和にかけて農民詩人渋谷定輔、アナーキズムしでは農民の草野比佐男ら、プロレタリアート詩では農村運動指導者だった谷川雁や黒田喜男らがいる。
 第三は、言葉それ自体の独立性や修辞を重視した、前衛的モダニズム詩の流れである。なかでも、象徴詩の延長線上に展開したシュールリアリズム(超現実主義)は、異種の結合により実感や常識に捕らわれない象徴詩の世界をつくりあげ、潜在意識を照射した。…(略)…
 賢治は熱心な仏教徒であり、また青春を大正デモクラシーのもとで過ごしたため、その詩には仏教思想や人道主義をベースにした叙情てきなものと、農業技師としての実践との一致をめざした生活リアリズム詩とに分かれる。
<『賢治の見た夢』(相川良彦著、日本経済評論社)166p~より>
 この部分も私には先の部分と同様で、日本の近・現代詩における潮流などということを全く知らなかった私にとっては、「欧米の詩に触発され生まれて、三つの潮流がある」ということを知り、目の前が一気に明るくなった次第である。そして、それらの三つの潮流の中にもそれぞれ「農民詩」のジャンルがあるのだということも刮目したところであった。なお、この章のタイトルが〝農民詩の系譜と文体〟であるので、相川氏は賢治の詩と農民詩をどう関係付けて見ているかが興味深かったところだが、そのことを直接語っているところは見つけられなかった。
詩的な賢治の芸術論
 そして、相川氏は同書のエピローグで再び次のように語っている。
 宮澤賢治の芸術論は、賢治が青春期に接した大正デモクラシーの社会思潮に大きく影響されて形成されたものだった。それは、一九世紀後半~二十世紀初めの欧米の民衆芸術論と相対性理論などの科学思想・宇宙観をほぼ踏襲している。賢治の独創は、この二つの論を啓示的に綜合し、詩的に表現することで情熱を込め、実践により活きた言葉にしたところである。
<『賢治の見た夢』(相川良彦著、日本経済評論社)249pより>
 な~るほど、と私は更に納得した。それは次の二点にである。
 その一点目は、相川氏の〝一 はじめに〟で述べていた「民衆の、民衆による芸術の創作という芸術運動は、十九世紀末~二十世紀初頭にかけて欧米で起きた」ことだけでなく、対となる「相対性理論などの科学思想・宇宙観をほぼ踏襲している」ということが合せ鏡となって賢治の芸術論は形成されたということの指摘の的確さにである。
 そしてその二点目が、そうして形成された賢治の芸術論が単なる味気ない論文調の文体によってではなくて〝詩的〟に表現されているところが人々を惹き付けて止まないのだということを私に教えてくれたところである。
 なおその反面、相川氏が「実践により活きた言葉にした」と言う程までの実践を、「農民芸術」において賢治ははたしてしたのだろうかという疑問が私の場合には残る。残念ながら「農民芸術概論綱要」にはもともと方法論が伴っておらず、そのせいでだったのだろうか、例えばまさしく賢治の芸術論の実践となり得べき「農民劇」、『ポランの廣場』六幕物の試演も実際にはなされていなかったことがそれを物語っているような気がする。

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