みちのくの山野草

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2950 賢治、家の光、犬田の相似性(#52) 

2012-10-13 09:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
2 「農民芸術概論綱要」
 さてでは先の新聞報道以外で、大雑把に言えば「農民劇」以外で賢治が下根子桜で行っていた農民芸術に直接関連するものは何か。それはほぼ、農民芸術の理論化と文学の創作の二つではなかろうか。つまり、「農民芸術概論綱要」と「農民詩」ではなかろうか。
 さて、時代が大正に入るとおびただしい数の雑誌が多くの大衆芸術を生み、「民衆芸術論」をより一層発展せしめた。農民文学運動はそのような時代背景の下に発生してきた(『犬田卯の思想と文学』(筑波書林)49p~より)、と安藤義道氏は指摘している。
 一方、板垣邦子氏は『昭和戦前・戦中期の農村生活』において次のように
 農村文化建設の提唱
 創刊号以降昭和三年頃までの『家の光』は、芸術・娯楽を主な内容とした農村文化問題に力を入れている。この時期、この問題の占める比重は大きく、農民文学・農民美術・農民劇に関する記事は、農民芸術運動を盛り上げようとする意欲を感じさせる。家庭雑誌といいながら、農村青年層を対象とした文芸雑誌的傾向さえある。
 農村の経済的不振、青年男女の都会集中、小作争議の頻発にみられる農村良風俗の荒廃を憂うという立場から、『家の光』は農村文化の建設を提唱する。その趣旨は、農村が独自の立場を堅持し、なおかつ現代文明を摂取して農村にふさわしい文化を建設し、生活の豊かさをとりもどさねばならないというものである。退廃に堕した都会文化への憧憬を捨て、健全な農村文化を築くべきであるという。
<『昭和戦前・戦中期の農村生活』(板垣邦子著、三嶺書房)18p~>
と語っている。
 これらのことから次のようなことが言えないだろうか。この時代は「民衆芸術」が勃興し、それに伴って「農民文学運動」や「農民芸術運動」も盛り上がっていった。そしてそれらは、第一次世界大戦後の不況により農村は経済的な打撃を受けた上に、青年男女の都会集中て農村は荒廃する一方だったから、退廃に堕した都会文化への憧憬を捨てて健全な農村文化を築くべく盛り上がった運動だったということなのだろう、と。そしてそのような運動を進めていったのが「農民文芸会」や雑誌『家の光』であった、と。
 また、この「農民文学運動」や「農民芸術運動」を体系化・理論化しようとした一つが「農民文芸会」の『農民文芸十六講』であり、他の一つが賢治の「農民芸術概論綱要」であると見ることもできるのではなかろうか。もしそうであるならば、この点でも賢治と「農民文芸会」は似ていることになる。
 なお、調べてみると『家の光』のは1925年(大正14年)4月に創刊されているから、賢治が下根子桜に移り住む1年前に既に創刊されていたことになる。また、「農民文芸研究会」は大正13年に結成され、大正15年に「農民文芸会」と改称され、犬田卯が中心となって活動していたというし、『農民文芸十六講』が出版されたのは大正15年10月である。

 次は「農民詩」について述べてみたいのだがそれは次回へ。  

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