以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#34)〟等において、『新校本年譜』に
「全集第六巻並に別巻解説」より
そんなり折たまたま十字屋版の『宮澤賢治全集 別巻』を見ていたならば、森惣一(森荘已池)の「全集第六巻並に別巻解説」が同書に所収されてあった。つらつらと眺めていたならば、その59p以降に次のようなことを森荘已池は述べていた。
時期を〝大正15年六月〟としたい理由の一つの可能性
さてその一に関連しては以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#34)〟でも私見を述べたように、堀尾青史の挙げた根拠は説得力に欠けると思っているところだが、森荘已池のこの証言「著者はすでにこの概論を草し」をこの度私は知り、実は堀尾の語ったところの〝☆〟、つまり
大正15年 六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
ということにしたかった理由の一つの可能性がある、と私は推論したのである。
もちろん以前の私であればこのような推論をすることはなかったと思うが、当時森荘已池は白鳥省吾や佐伯郁郎等に対する批判的な心情をしばしば吐露していたり、彼らに対して声高に辛辣な言葉を言い募っていたりしていたということがほぼ間違いなさそうだということを知るに至ったいまは違う。当時の森荘已池の心の内を知ってしまったいまは、この推理はそれほど意外なことでもないという確信に近づきつつある。
実際それが全く根拠がない訳でもないことを、いみじくも森荘已池自身が語っていると私は思う。それは
この著作の發表されたのは、著者の死後で草野心平編輯の「宮澤賢治研究」であります。
と森荘已池が語っているからである。つまり、もしこのことが歴史的事実であるならば、賢治が亡くなる遙か以前の大正15年7月頃の『農民芸術概論綱要』の完成具合・程度を森荘已池は知り得る術はなかったはずだから矛盾が生じることになる。したがって、おそらく森はその完成具合・程度をその当時は知らなかったと見るのが妥当であろう。当然、
もちろん、賢治がこの芸術論『農民芸術概論綱要』の完成程度を森荘已池にだけは密かにある程度喋っていたという可能性も否定はできないが、もしそうであったとするならば、森荘已池の性格を考慮すればそのことをあっけらかんと、得意げに明かすと思うが、それは為されていないはずだ。したがってこちらの方の可能性はほぼ皆無となり、逆に、前に述べたことが「時期を〝大正15年六月〟としたい理由の一つの可能性」として浮上してくると思うのである。
賢治≪石川理紀之助
さて次は二つ目に関してである。森荘已池は
賢治を石川理紀之助等の系譜を正しく継ぐべき人物である
と主張しているが、如何なものであろうか。
秋田県人ならば石川理紀之助を知らぬものはないと言われ、理紀之助は『寝ていて人を起こすことなかれ』と言った「老農」として皆から尊崇されているという。また「農聖」とも称えられている理紀之助だが、例えば『土に塗れて 農聖石川理紀之助の生涯』(北尾正幸著、創造社)を読んでみると彼と彼の実践がよく解る。そして理紀之助を知れば知るほど、下根子桜時代の賢治の実践は遙かに及ばないことを認めざるを得ない。
残念ながら、賢治が下根子桜時代に何をどの期間、どの程度実践したかということと石川理紀之助の一生涯の実践を比べてみれば、賢治が石川理紀之助を正しく継ぐべき人物であるとは悔しいことだが冷静に判断すれば言い難い。賢治の実践は石川理紀之助に比べて遙かに及ばなかったということは甘受せねばなず、次の不等式
賢治≪石川理紀之助
が成立することを私達は認めねばならぬだろう。
外延的なものに行動を奔騰させたか
では最後の三つ目である。森荘已池は
考えてみれば、この頃(大正15年の初夏以降)といえば隣の郡内の明石村や不動村そして志和村などは大旱魃で飢饉一歩手前の状況にあった訳だが、このことに対して果たして賢治や羅須地人協会員等が『農民芸術概論綱要』に基づいた〝外延的なものに行動を奔騰させた〟のだろうか。当時の『岩手日報』の報道などを見れば、この旱魃地帯の農民の惨状を知って日本全国から陸続と義捐金や義捐物資が送られてきたり、救援活動が為されていたことが解るが、その当時、賢治や羅須地人協会の若者達がそのために義捐活動をしたという事実も証言も私は聞いていない(私の管見のせいかもしれないが)。したがって、このことに鑑みればどうみても〝外延的なものに行動を奔騰させた〟とは言い難いのではなかろうか。
おそらく、賢治が「農民芸術の綜合」で
もちろん〝外延的なものに思索を奔騰させたのであります〟ということはそのとおりであったであろうとは思うのだが、「畢竟ここには宮沢賢治一九二六年の」と語った賢治が、少なくとも〝外延的的なものに行動を奔騰させた〟とまでは言えなさそうである、ということも残念ながら私は甘受せねばならなぬと判断した。
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大正15年 六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
とあるが、その時期についての疑問を呈した。「全集第六巻並に別巻解説」より
そんなり折たまたま十字屋版の『宮澤賢治全集 別巻』を見ていたならば、森惣一(森荘已池)の「全集第六巻並に別巻解説」が同書に所収されてあった。つらつらと眺めていたならば、その59p以降に次のようなことを森荘已池は述べていた。
著者が自分自身を一九二六年の宮澤賢治と呼んでゐるやうに、ここから著者は内包的なものから外延的なものに行動や思索を奔騰させたのであります。けれども著者はこの綱要は手稿し、己れ自身に宣言はしましたが、人や世に示すことはしませんでした。――日本の農民文学運動は、丁度このころ揺籃期でありました。そしてその人たちのとなへた地方主義のごときものは、フランスの農民文学の直譯的移入と見られるものでありました。著者はそれらのことを知つてゐたか知らなかつた知る由もありませんが、三四人の中央知名の作家詩人がこの頃來縣し、農民文學に關して講演会を開催したときは、著者はすでにこの概論を草し、実際に農民生活に入つてゐたのであります。
この著作の發表されたのは、著者の死後で草野心平編輯の「宮澤賢治研究」であります。これは手製の原稿紙に一項目一枚づつ萬年筆で立派に書いてあります。農民藝術の興隆に關するメモによつても、著者が青年期に思索探求して蓄積したものの總和の表現といつてよいでありませう。著者がこのやうに實践の指標を晶化したもの、一にかかつて日本の農村と農民生活をいかにすべきか、よつて以て立つべきものを確然としなければいけないといふ情熱からであつて、著者自身農民生活の實践要項であるとともに、著者が藝術をどのやうに考へたゐたか、その明らかな答案であります。
私は古の日本農民の師父、二宮尊徳、宮崎安貞、松浦宗寄、石川理紀之助につづく系譜を、正しくつぐものとして著者の名を、これらの人人とともに掲げたいと思ふのであります。
この著作の發表されたのは、著者の死後で草野心平編輯の「宮澤賢治研究」であります。これは手製の原稿紙に一項目一枚づつ萬年筆で立派に書いてあります。農民藝術の興隆に關するメモによつても、著者が青年期に思索探求して蓄積したものの總和の表現といつてよいでありませう。著者がこのやうに實践の指標を晶化したもの、一にかかつて日本の農村と農民生活をいかにすべきか、よつて以て立つべきものを確然としなければいけないといふ情熱からであつて、著者自身農民生活の實践要項であるとともに、著者が藝術をどのやうに考へたゐたか、その明らかな答案であります。
私は古の日本農民の師父、二宮尊徳、宮崎安貞、松浦宗寄、石川理紀之助につづく系譜を、正しくつぐものとして著者の名を、これらの人人とともに掲げたいと思ふのであります。
<『宮澤賢治全集 別巻』(宮澤賢治著、十字屋書店版)>
もちろん、これは『農民芸術概論(綱要)』について述べているわけだが、この中で気になったことが3点ある。・その一は、賢治は『農民芸術概論(綱要)』を大正15年7月(農民文學に關して講演会を開催したとき)以前にすでに草していたと森荘已池が語っていること。
・その二は、森荘已池は賢治を石川理紀之助等の系譜を正しく継ぐべき人物であると語っていること。
・そしてその三は、本当に賢治は「自身を一九二六年の宮澤賢治と呼んでゐるやうに、ここから著者は内包的なものから外延的なものに行動や思索を奔騰させた」のだろうかということ。
である。・その二は、森荘已池は賢治を石川理紀之助等の系譜を正しく継ぐべき人物であると語っていること。
・そしてその三は、本当に賢治は「自身を一九二六年の宮澤賢治と呼んでゐるやうに、ここから著者は内包的なものから外延的なものに行動や思索を奔騰させた」のだろうかということ。
時期を〝大正15年六月〟としたい理由の一つの可能性
さてその一に関連しては以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#34)〟でも私見を述べたように、堀尾青史の挙げた根拠は説得力に欠けると思っているところだが、森荘已池のこの証言「著者はすでにこの概論を草し」をこの度私は知り、実は堀尾の語ったところの〝☆〟、つまり
これも皆さんの推測と言うこともあるんですが、開墾や農事指導などの忙しさから解放されて、比較的余裕ができた月ですね。先ずこの辺で間違いなかろうということです……☆
という〝想い〟を森荘已池も同様に語ったのではなかろうかと思ったのである。つまりこの時期には既に『農民芸術概論綱要』の草案は完成していなければならなかったという〝想い〟を森荘已池も語ったのだ、と。さらにいえば、『農民文芸十六講』が出版される以前にもう『農民芸術概論綱要』はほぼ完璧に出来上がっていた(それが事実であったということの根拠は私には判らぬが)のだということを森は言いたかったのではなかろうかと私は推理したのである。だから森荘已池もこの年譜同様に〝大正15年6月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く〟と言いたかったのだと。いやもっと正確にいうと、そこに大正15年 六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
ということにしたかった理由の一つの可能性がある、と私は推論したのである。
もちろん以前の私であればこのような推論をすることはなかったと思うが、当時森荘已池は白鳥省吾や佐伯郁郎等に対する批判的な心情をしばしば吐露していたり、彼らに対して声高に辛辣な言葉を言い募っていたりしていたということがほぼ間違いなさそうだということを知るに至ったいまは違う。当時の森荘已池の心の内を知ってしまったいまは、この推理はそれほど意外なことでもないという確信に近づきつつある。
実際それが全く根拠がない訳でもないことを、いみじくも森荘已池自身が語っていると私は思う。それは
この著作の發表されたのは、著者の死後で草野心平編輯の「宮澤賢治研究」であります。
と森荘已池が語っているからである。つまり、もしこのことが歴史的事実であるならば、賢治が亡くなる遙か以前の大正15年7月頃の『農民芸術概論綱要』の完成具合・程度を森荘已池は知り得る術はなかったはずだから矛盾が生じることになる。したがって、おそらく森はその完成具合・程度をその当時は知らなかったと見るのが妥当であろう。当然、
三四人の中央知名の作家詩人がこの頃來縣し、農民文學に關して講演会を開催したときは、著者はすでにこの概論を草し
ていたということもその時点(大正15年7月)では森荘已池は知らなかった可能性が高いのではなかろうか。もちろん、賢治がこの芸術論『農民芸術概論綱要』の完成程度を森荘已池にだけは密かにある程度喋っていたという可能性も否定はできないが、もしそうであったとするならば、森荘已池の性格を考慮すればそのことをあっけらかんと、得意げに明かすと思うが、それは為されていないはずだ。したがってこちらの方の可能性はほぼ皆無となり、逆に、前に述べたことが「時期を〝大正15年六月〟としたい理由の一つの可能性」として浮上してくると思うのである。
賢治≪石川理紀之助
さて次は二つ目に関してである。森荘已池は
賢治を石川理紀之助等の系譜を正しく継ぐべき人物である
と主張しているが、如何なものであろうか。
秋田県人ならば石川理紀之助を知らぬものはないと言われ、理紀之助は『寝ていて人を起こすことなかれ』と言った「老農」として皆から尊崇されているという。また「農聖」とも称えられている理紀之助だが、例えば『土に塗れて 農聖石川理紀之助の生涯』(北尾正幸著、創造社)を読んでみると彼と彼の実践がよく解る。そして理紀之助を知れば知るほど、下根子桜時代の賢治の実践は遙かに及ばないことを認めざるを得ない。
残念ながら、賢治が下根子桜時代に何をどの期間、どの程度実践したかということと石川理紀之助の一生涯の実践を比べてみれば、賢治が石川理紀之助を正しく継ぐべき人物であるとは悔しいことだが冷静に判断すれば言い難い。賢治の実践は石川理紀之助に比べて遙かに及ばなかったということは甘受せねばなず、次の不等式
賢治≪石川理紀之助
が成立することを私達は認めねばならぬだろう。
外延的なものに行動を奔騰させたか
では最後の三つ目である。森荘已池は
内包的なものから外延的なものに行動や思索を奔騰させたのであります
と語っているが、果たして〝自分自身を一九二六年の宮澤賢治と呼んでゐる〟賢治はこの頃『農民芸術概論綱要』の芸術論を〝外延的なものに行動や思索を奔騰させた〟のであろうか。考えてみれば、この頃(大正15年の初夏以降)といえば隣の郡内の明石村や不動村そして志和村などは大旱魃で飢饉一歩手前の状況にあった訳だが、このことに対して果たして賢治や羅須地人協会員等が『農民芸術概論綱要』に基づいた〝外延的なものに行動を奔騰させた〟のだろうか。当時の『岩手日報』の報道などを見れば、この旱魃地帯の農民の惨状を知って日本全国から陸続と義捐金や義捐物資が送られてきたり、救援活動が為されていたことが解るが、その当時、賢治や羅須地人協会の若者達がそのために義捐活動をしたという事実も証言も私は聞いていない(私の管見のせいかもしれないが)。したがって、このことに鑑みればどうみても〝外延的なものに行動を奔騰させた〟とは言い難いのではなかろうか。
おそらく、賢治が「農民芸術の綜合」で
……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか……
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)15pより>
と高らかに謳いあげたこの格調高い呼びかけは、少なくともその時点ではまだ〝外延的なものに行動を奔騰させ〟るところまでは至っていなかったのではなかろうか。もちろん〝外延的なものに思索を奔騰させたのであります〟ということはそのとおりであったであろうとは思うのだが、「畢竟ここには宮沢賢治一九二六年の」と語った賢治が、少なくとも〝外延的的なものに行動を奔騰させた〟とまでは言えなさそうである、ということも残念ながら私は甘受せねばならなぬと判断した。
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