しばし〝 賢治、家の光、犬田の相似性〟というタイトルであちこちうろちょろと周辺を彷徨ってみたのだったが、最後の方になって巧くまとめられそうになくなってしまってしばし打っちゃいて置いたこのシリーズである。
さりとて寒露も過ぎて秋の山々も色付き始めてきたことでもあり、まごまごしていると直に厳しい冬がやって来そうだということを覚り、意を決してそろそろまとめに入りたい、と思っているのだが…。
そもそもこの拙論はあくまでも賢治の下根子桜時代を対象とするものであることをまず確認させてもらいたい。
1 新聞報道から見えてくる下根子桜時代の賢治
さて、当時賢治はどのようなことを考えどのようなことを実践しようとしていたのだろうか。そのために、賢治の下根子桜時代に報道された例の新聞記事をまたぞろ見直してみたい。
(1) 大正15年4月1日付『岩手日報』の記事
まずは、賢治が下根子桜に移り住む際に『岩手日報』の記者の取材に答えた記事。それは
(2) 当初賢治は下根子桜で何をしたかったのか
ということは、この記事からは下根子桜に移った当初の賢治は『新しい農村の建設に努力する』と宣言して、
しかし見出しには『新しい農村の建設に努力する』とあるものの、この記事によれば賢治が当初考えていたことは、農学校教師を辞めて自分の気の向くままに大学へ行ったり農耕したりしながら、20余名の仲間と芸術の生き甲斐が感じられる静かな生活を送りたいというような穏やかなものである。当時農村は不況等により深刻な大打撃を受けていた訳だが、近隣の農村・農家を一刻も早くなんとかしようという緊迫さも犠牲的精神の発揮もそこからはあまりは感じ取れない。また、すぐさま『農民芸術概論綱要』の完成に邁進しようとしていたのかというとその想いも同様あまり感じられない。一方で、賢治は下根子桜に移ったからといって一年中花巻に居るつもりもなかったようだし、稲作指導や肥料設計なども行いたいなどとは当時公言していなかったということにもなる(内心考えていたのかも知れぬが)。
残念ながら、『新しい農村の建設に努力する』となってはいるものの、農民達のために教師という職業をなげうっていま困っている彼らのために直ぐさま粉骨砕身しようとしていたという想いがひしひしと伝わってくるような記事ではないような気がする。
どうやら、大正15年4月から始めた賢治の下根子桜の営為はそれほど周到な準備をした上のものでもなければ、熟慮に熟慮を重ねた末の新たな決意の下に始めたものでもなかったような気がしてならない。
続きの
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さりとて寒露も過ぎて秋の山々も色付き始めてきたことでもあり、まごまごしていると直に厳しい冬がやって来そうだということを覚り、意を決してそろそろまとめに入りたい、と思っているのだが…。
そもそもこの拙論はあくまでも賢治の下根子桜時代を対象とするものであることをまず確認させてもらいたい。
1 新聞報道から見えてくる下根子桜時代の賢治
さて、当時賢治はどのようなことを考えどのようなことを実践しようとしていたのだろうか。そのために、賢治の下根子桜時代に報道された例の新聞記事をまたぞろ見直してみたい。
(1) 大正15年4月1日付『岩手日報』の記事
まずは、賢治が下根子桜に移り住む際に『岩手日報』の記者の取材に答えた記事。それは
新しい農村の建設に努力する
花巻農學校を辞した宮澤先生
花巻川口町宮澤政治郎氏長男賢治(二八)氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
花巻農學校を辞した宮澤先生
花巻川口町宮澤政治郎氏長男賢治(二八)氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である<大正15年4月1日付『岩手日報』より)>
というものであった。(2) 当初賢治は下根子桜で何をしたかったのか
ということは、この記事からは下根子桜に移った当初の賢治は『新しい農村の建設に努力する』と宣言して、
①農村は経済的にも種々行き詰まっている。
②一年の半分は東京とか仙台の大学で『農村経済』を研究したい。
③残り半分は花巻にて耕作に従事し、生活=藝術の生がいを静に送りたい。
④実践としては幻燈會(毎週)、レコードコンサート(月一回位)行いたい。
⑤それぞれが作った農作物の物々交換をおこないたい。
ということなどを思っていたということがいえるだろう。②一年の半分は東京とか仙台の大学で『農村経済』を研究したい。
③残り半分は花巻にて耕作に従事し、生活=藝術の生がいを静に送りたい。
④実践としては幻燈會(毎週)、レコードコンサート(月一回位)行いたい。
⑤それぞれが作った農作物の物々交換をおこないたい。
しかし見出しには『新しい農村の建設に努力する』とあるものの、この記事によれば賢治が当初考えていたことは、農学校教師を辞めて自分の気の向くままに大学へ行ったり農耕したりしながら、20余名の仲間と芸術の生き甲斐が感じられる静かな生活を送りたいというような穏やかなものである。当時農村は不況等により深刻な大打撃を受けていた訳だが、近隣の農村・農家を一刻も早くなんとかしようという緊迫さも犠牲的精神の発揮もそこからはあまりは感じ取れない。また、すぐさま『農民芸術概論綱要』の完成に邁進しようとしていたのかというとその想いも同様あまり感じられない。一方で、賢治は下根子桜に移ったからといって一年中花巻に居るつもりもなかったようだし、稲作指導や肥料設計なども行いたいなどとは当時公言していなかったということにもなる(内心考えていたのかも知れぬが)。
残念ながら、『新しい農村の建設に努力する』となってはいるものの、農民達のために教師という職業をなげうっていま困っている彼らのために直ぐさま粉骨砕身しようとしていたという想いがひしひしと伝わってくるような記事ではないような気がする。
どうやら、大正15年4月から始めた賢治の下根子桜の営為はそれほど周到な準備をした上のものでもなければ、熟慮に熟慮を重ねた末の新たな決意の下に始めたものでもなかったような気がしてならない。
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