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おわりに

2021-04-15 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

おわりに

 さて、通説からすれば全く荒唐無稽なことだと嗤われることは承知の上で立てた仮説「♣」だったが、私の知り得る限りの関連する証言や資料等によってここまで検証してきた結果、この仮説を裏付けているものこそあれ反例となるものは何一つなかった。したがって、私自身はこの仮説はほぼ歴史的事実であったと確信している。
 とはいえ、たとえば、現在行方不明になっている賢治周辺の人達の日記等が見つかって、その中にはこの仮説「♣」の反例となる記載があることもあり得る。そうなるとこれまでのことが皆水泡に帰すことになるから私としては切ないところも正直ある。しかし、そのような場合でももちろん私は潔くそれを受け入れ、仮説はあっさり棄却する覚悟はしている。そうすることが、それこそ矜持なのだと。
 いずれ、今回展開した私見等は今後厳しい裁きを受けることであろう。
 一方で、大正15年12月2日の「現通説」については、少なくとも「沢里武治氏聞書」や『宮澤賢治物語』(『岩手日報』連載)に従う限り矛盾を孕んでいると言わざるを得ない、ということも同時に私には解った。そしてどうやら、『宮澤賢治物語』の改竄の背景も私個人としては次第に見えてきたような気がする。そしてその背景としては、「羅須地人協会時代」にこの「♣」にあるような稔り少ない「3ヶ月弱」の滞京は当時の「宮澤賢治像」にとっては「不都合な真実」だから葬り去りたいという背景がありそうだということも十分考えられることを知った。
 かつての私は、賢治はそれこそ「雨ニモマケズ」にあるような営為を「羅須地人協会時代」に行っていたとばかり思っていたが、賢治自身がそう言っているように、あくまでも「サウイフモノニワタシハナリタイ」のであり、そうできなかったことを悔恨しているのだということがこの頃やっと分かってきた。
 だから仮に「♣」が真実だったとしても、これからの私はもう恐れない。かえって、「羅須地人協会時代」の2年4ヶ月余を悔恨しないような賢治を私は尊敬しない。また、あの時代に「3ヶ月弱」が空白にされたままに「処理」されている賢治であることの方がはるかに悲しむべきことだと私は思う。
 それにしてもつくづく思うことは、あまりにも羅須地人協会に関しては明らかになっていないことや分からないことが多すぎるということである。
 例えば、千葉恭なる人物を知りたいとかつて思った際に、彼に関することは全くと言っていいほど調べられていなかったことに愕然とした。幸い幾つかの証言を得て、新たな資料等を見出すことができたので、それらのことを基にして千葉恭のことを先に拙書『賢治と一緒に暮らした男』においていくらか明らかにできた。
 逆に、今回取り組んだ「賢治昭和二年の上京」に関してはかなりの数の証言や資料があった。千葉恭の場合には唯一あった資料さえ間違った情報を含むものであり、それ以外には全くと言っていいほど資料がなかったことと対極的だった。
 しかし「賢治昭和二年の上京」に関しては多くの証言や資料が存在するのにもかかわらず、それらから合理的に導き出される帰結はどうも「現通説」とはかなり異なっているのではなかろうか、ということを私は本書を書き終えて今確信している。
 同時に、この「賢治昭和二年の上京」に関しては、証言の改竄を始めとして幾つかの不自然な現象が起こっていることや理不尽なことが行われていることも知った。そしてそれがために賢治の最愛の教え子澤里武治、柳原昌悦の二人がいかに心を痛めたかということは想像に難くない。そして賢治と同信の関登久也もである。なぜこのようなことが起こっていたのだろうか。思考実験はしてみたもののそれが真相だとは思いたくない。

 さて今後であるが、どうして千葉恭が無視されてきたのかという疑問、なぜ澤里の証言が改竄されたりしたのかという疑問、そしてこれらの二つに通底しているところをさらに解明してみたいという気持ちもあるが、正直私にとってはまだまだ手強そうである。
 一方、あまりにも「羅須地人協会」や「羅須地人協会時代」に関しては明らかになっていないことや分からないことが多すぎると思っている私としては、その中でもとりわけ、千葉恭のこと、「賢治昭和二年の上京」そして高瀬露の「伝説」が気になっていた。
 そしてこの三つはそれぞれが際だった特徴があり、関連する資料が全くと言っていいほどなかった千葉恭、逆に有り余るほどと言っていいほどの資料がある「賢治昭和二年の上京」に対して、資料どころか単なる噂話に基づいて伝説を捏ち上げられたの感がある高瀬露の「伝説」という図式になっている。
 そしてこの三つのうちの二つについてはひとまず取り組みが終わったので、残された三つ目の高瀬露について今後は取り組んでみたい。残されている証言や資料、そして私の今までの取材等によれば全くそうではないはずなのに、検証もされずに噂話等だけを基にして濡れ衣を着せられてしまったと思われる高瀬露の「伝説」の真偽を明らかにできれば、「羅須地人協会」の真実がかなりの程度見えてくるのではなかろうか、ということが期待できそうだからである。

 最後になりましたが、本書の出版に際しましては、ご指導やご助言、ご協力を賜りました入沢康夫氏、菊池忠二氏、澤里裕氏、岩田有史氏、伊藤和夫氏、日本現代詩歌文学館様、松本隆氏、藤原艶子氏、高橋光氏、伊藤博美氏、伊藤吉一氏、金の星社様、鈴木修氏の皆様方には深く感謝し、厚く御礼申し上げます。
平成25年2月15日 

<参考文献>
『イーハトーヴォ創刊號』(宮澤賢治の會)
『イーハトーヴォ第六號』(宮澤賢治の會)
『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)
『イーハトーヴォ復刊5』(宮澤賢治の會)
『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、トリョーコム)
『セロを弾く賢治と嘉藤治』(佐藤泰平著、洋々社)
『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)
『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』(重本恵津子著、河出書房)
『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)
『岩手日報』(昭和2年2月1日)
『岩手日報』(昭和31年2月22日)
『岩手日報』(昭和31年2月23日)
『岩手日報』(昭和50年9月30日)
『岩手日報』(平成11年11月1日)
『岩手日報』(平成15年7月29日)
『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、 新潮文庫)
『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社)
『宮沢賢治 第5号』(洋々社)
『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)
『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)
『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)
『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)
『宮澤賢治の音楽』(佐藤泰平著、筑摩書房)
『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)
『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報第16号●黄水晶』
『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)
『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)
『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年)
『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年)
『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)
『宮澤賢治研究Annual Vo.15』(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)
『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』、筑摩書房)
『宮澤賢治全集別巻』(十字屋書店、昭和27年)
『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年)
『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年)
『宮澤賢治素描』(關登久也著、協栄出版社)
『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)
『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)
『宮澤賢治物語(49)』(関登久也著、岩手日報社)
『宮澤賢治物語(50)』(関登久也著、岩手日報社)
『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)
『賢治小景』(板谷栄城著、熊谷印刷出版部)
『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)
『賢治地理』(小沢俊郎編、學藝書林)
『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)
『國文學 53年2月号』(學燈社)
『国文学 解釈と鑑賞 平成三年6月号』(至文堂)
『今日の賢治先生』(佐藤司著)
『四次元7號』(宮澤賢治友の会)
『四次元9號』(宮澤賢治友の会)
『四次元 百五十号記念特集』(宮沢賢治研究会)
『修羅はよみがえった』((財)宮沢賢治記念会、ブッキング)
『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店)
『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)
『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』(筑摩書房)
『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)
『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』 (筑摩書房)
『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)
『新装版 宮沢賢治物語』(関登久也著、学習研究社)
『「宮澤賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―』 (上田哲著、『七尾論叢11号』所収)
『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)
『世界の作家 宮沢賢治 エスペラントとイーハトーブ』(佐藤竜一著、彩流社)
『月夜の蓄音機』(吉田コト、荒蝦夷)
『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社)
『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)
『ちくま日本文学全集 宮沢賢治』(筑摩書房)
『宮澤賢治の五十二箇月』、(佐藤成著)
『童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山』(松本隆著、ツーワンライフ社)
『七尾論叢 第11号』(1996年12月、吉田信一編集、七尾短期大学)
『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)
『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)
『藤原嘉藤治蔵書目録』(木村東吉制作)
『図説 宮沢賢治』(上田・関山・大矢・池野共著、河出書房房新社)
『宮沢賢治から<宮沢賢治>へ』(佐藤通雅氏著、學藝書林)

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8 コメント

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ゴーシュの楽長=斎藤秀雄? (A.AKECHI)
2021-04-16 14:04:10
 「昭和2年の上京」をあらためて通読させていただく機会を下さり、ありがとうございます。
 通読すれば、澤里氏の「どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします…」の「どう考えても」の言葉が切実に響きます。

 ところで、賢治さんがオルガンやセロの「先生」を求めた新交響楽団(当時)の指揮者に注目してみると、以下のようにブログに書いた人がおられます。
 「(「ゴーシュ」の楽長として描かれた)楽長の個性は公家の近衛より、強烈な斉藤秀雄こそふさわしい。ただし、斎藤がドイツ留学から帰国して、新交響楽団に入ったのは1927(昭和二年)九月だった。
 賢治がチェロを習いにいった1926年末には斉藤はいなかった。従って、斎藤の練習風景を見たのなら、賢治が伊豆大島にいった1928年六月の上京が注目される。」 https://blog.goo.ne.jp/ir5002/e/44cadc76aecedcd96831effdd15a0a4a
 この(↑)ブログでは、「1928年六月の上京」を想定していますが、斎藤秀雄が帰国した「1927(昭和二年)九月」の後なら良いわけで、当然「昭和2年11月の上京」も当てはまると考えられます。
返信する
御教示ありがとうございます (A.AKECHI 様)
2021-04-16 20:29:26
A.AKECHI 様
 この度も御教示ありがとうございます。
 斉藤秀雄につきましては、以前、『嬉遊曲、鳴りやまず』(中丸美繪著、新潮文庫)である程度知ったのですが、「1926年末には斉藤はいなかった」につきましては、私は今迄無頓着でした。確かに仰るとおりであることに納得いたしました。改めて、感謝申し上げます。
 これからもどうぞよろしくお願い致します。
                 鈴木 守
 
 
 
返信する
続・ゴーシュの楽長=斎藤秀雄? (A.AKECHI)
2021-04-17 11:17:21
 「昭和2年の上京」からは外れますが、斎藤秀雄につきまして。

 また聞きのまた聞きのそのまたまた聞きに過ぎません(=信憑性は不明)が、斎藤秀雄に師事された方の多くが ゴーシュの楽長の口調は「斎藤秀雄先生ぽい」とおっしゃっています。例)https://www.a-cordes.com/20150426morimotoshino
 中には「そっくり」と言う方もいるようです。


 
返信する
さらなる御教示ありがとうございます。 (A.AKECHI 様 へ)
2021-04-17 12:51:35
A.AKECHI 様
 さらなる御教示ありがとうございます。
 お陰様で、森元志乃さんのブログも拝見できました。斎藤秀雄の門下生ということですので、説得力もありました。
 そこで、ちょっと想像を逞しくして、

 賢治は花巻農学校の退職金を520円も貰っており、これはかなりの高額ですから、この大金を懐に昭和2年の11月頃から約三ヶ月間滞京し、チェロの猛勉強をするとともに、斎藤秀雄の指揮の様子もしばしば見に行ったのではなかろうか。

などと妄想してみました。
 これからも御教示賜りたく、どうぞよろしくお願い致します。
                    鈴木 守



 
返信する
続・ゴーシュの楽長=斎藤秀雄? (A.AKECHI)
2021-04-18 13:31:16
鈴木守様

 ご参考にしていただけたようで、こちらこそありがとうございます。

>チェロの猛勉強をするとともに、斎藤秀雄の指揮の様子もしばしば見に行ったのではなかろうか。
 まさにそう考えられますが、当時の斎藤秀雄は若手のそれも入団したばかりの団員ですから、(演奏会の指揮は担当せず、)練習の時の指揮者で、「見に行った」のは練習風景だと思われます。
返信する
御丁寧にありがとうございます (A.AKECHI 様)
2021-04-18 17:14:57
A.AKECHI 様
 ありがとうございます。
 「見に行った」のは練習風景ということですね。

 お陰様で、賢治は昭和2年の11月頃上京、チョロの猛勉強のため3ヶ月間弱滞京した、ということをさらに確信できました。
*********************************
 賢治がチェロを持って澤里武治一人に見送られて上京したということの「典拠」は、いわゆる「澤里武治氏聞書」以外にありま得ません(そのような証言は他には知られていないからです)。
 ちなみに、この聞書は以下の著書等に載っております。そこでそれぞれにおける「三ヵ月の滞京」ついての記載だけを拾ってみますと以下のとおりです。

⑴『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年2月20日発行)
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。
⑵『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月20日発行)
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
           <関登久也没           昭和32年2月15日 >
⑶「宮澤賢治物語」(関登久也著、昭和31年2月22、23日付『岩手日報』連載)
 。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
           <関登久也夫人岩田ナヲ没     昭和24年9月21日>
⑷『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年2月5日発行)
 そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
⑸『續 宮澤賢治素描』(『昭和19年3月8日付 原稿ノート』)
 そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。

 したがって、いずれの場合も同じような書き方をしていますから
少なくとも三ヶ月弱、賢治はチェロの猛勉強のために滞京していた。
ということはまず間違いないでしょう。

 にもかかわらず、賢治研究家の誰一人としてこのことを述べておりません。
 しかし、この「三ヶ月弱」を賢治年譜に当て嵌めてみますと、大正15年12月の上京では成り立ちません。ところが、昭和2年の11月頃であれば、綺麗に当て嵌まります(『本統の賢治と本当の露』(29~30p)https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/1d492bf715a656d907d1bc69f7504c6d)。
 これからもどうぞ御教示お願い致します。
               鈴木 守
返信する
続々・ゴーシュの楽長=斎藤秀雄? (A.AKECHI)
2021-04-19 17:34:27
 鈴木守様

 すみません。見落としていたことがありました。
 昭和2年の11月頃からの「少なくとも三ヶ月弱、賢治はチェロの猛勉強のために滞京していた。」という御説を揺るがすものではありませんが、
 昨日書いた
 >斎藤秀雄は若手のそれも入団したばかりの団員ですから、(演奏会の指揮は担当せず、)練習の時の指揮者で、~
 というのは間違いでした。
 中丸氏の「嬉遊曲、鳴りやまず~」を見直してみたところ、p.95に
 「斎藤は新響に入団した翌1928年5月27日、第30回定期演奏会に指揮者として初めて登場し、~ 」と、書かれています。
 ですから、賢治さんが「見に行った」のは、練習風景が多かったとは思いますが、斎藤が指揮した演奏会を「見に行った」可能性もあります。

 この件とは関係ありませんが、同書p.78に
 「秀雄の弟の武彦が」「暁星中学を卒業後、盛岡高等農林学校に進み、~」と書かれています。
返信する
度重なる御教示ありがとうございます。 (A.AKECHI 様 へ)
2021-04-19 18:18:40
A.AKECHI 様
 度重なる御教示ありがとうございます。
 ますます、斉藤秀雄の可能性が大だということが分かりました。
 これからもどうぞよろしくお願いします。
                鈴木 守
返信する

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