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4 結論

2021-04-14 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

4 結論
 さて、長かった「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅もそろそろ終わりにしたい。

✨ 仮説「♣」について
 幸い、定立した仮説「♣」、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
についてはさしたる反例も見つからず検証に耐え得ることができたし、一方では「○澤」及び「○柳」という強力な証言等もあることから、今後この仮説に対する反例が見つかるまでは、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♧
は歴史的事実である<*1>ことが明らかになった、と私はいま確信している。
✨ 「通説○現」について
 よって、宮澤賢治大正15年12月2日の現通説は、
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。…………「通説○現」
となってはいるが、賢治がこのようにして澤里一人に見送られて上京したのはこの日ではなくて、実はその約一年後のことであるとならざるを得ない。
 そして、宮澤賢治の大正15年12月2日についてせいぜい言えることは、柳原の証言に基づいて、
一二月二日(木) 上京する賢治を柳原や澤里が見送った。
ということだけであろうし、この時に賢治がチェロを持って上京したということもない、というのが私見である。
✨ 「現賢治年譜」の長すぎる空白について
 一方、あまりにも長すぎる「現賢治年譜」における、下表の「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の空白、

の真相は、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♧
ことによるものであり、この「3ヶ月弱の滞京」によってこの空白期間の大部分を埋めることができるというのが私の辿り着いた結論の一つである。
✨ 「不都合な真実」「♧」について
 一方で、この「♧」という「歴史的事実」は「不都合な真実」なので「宮澤賢治年譜」から抹消してしまいたいと思った一部の人達がおり、実際それが為されたのではなかろうかという危惧があることを私は問題提起をせざるを得ない。
 がしかし、それはおそらく私だけの「危惧」であり、この一部の人達の行為が実際あったはずがないという想いも私には強い。とはいえ、現実に次のような三つの事実が残っているということに鑑みればやはりそのような行為があったかもしれないという不安を私は拭い去ることもまたできない。
・単行本『宮澤賢治物語』において著者以外の人物による改竄が行われたという事実
・道理に合わない理由をかたって『賢治随聞』が出版されたという事実
・「校本年譜」や「新校本年譜」において澤里武治の証言が恣意的に使われているという事実
 私は、これらのこととどう折り合いを付ければいいのこれから暫くは悩みが続きそうだ。だからおそらく、先に述べた「リトマス試験紙」は当分私の頭の中の引き出しに仕舞ったままとなるかもしれない。
✨ 澤里・柳原の苦悩について
 最後に、先に第二章の「1」で
 柳原は証言「○柳」を公にすることを憚っていたに違いない。しかし、実は柳原がそのようなことを憚る必要は全くなかったのであり、……
と述べたことに関してである。
 ここまでを振り返ってみれば、『宮澤賢治物語』が何者かによって改竄されたそのあおりで、当の澤里武治、そして同級生の柳原昌悦はいわれない苦悩をさせられたに違いないであろうことが私にはひしひしと感じられる。
 以前澤里武治の実家を訪れた際に、長男の裕氏が見せてくださった新聞連載版『宮澤賢治物語』を貼ったスクラップブックと、単行本『宮澤賢治物語』を思い出しながら私は次のように推察する。
 賢治をひたすら崇敬している澤里武治のことだから、『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語』をスクラップブックに貼りながら、おそらく食い入るように読んでいたと思う。そしてそれが単行本『宮澤賢治物語』として出版された際には、いち早くそれを購入して恩師のことを思い出しながら読み始めたと思う。
 そして愕然としたに違いない。自分の証言が改竄されていたことに気付いたからだ。もし私が澤里ならば、この改竄はおそらく関登久也によってなされたと疑ってしまうような事態だから、澤里は知れず悩んだに違いない。
 一方で、澤里の証言が正しく使われずに定着してしまった「通説○現」に対しては、柳原昌悦も苦悩したと思う。もし私が柳原ならば、それは澤里が嘘の証言をしているからだと恨みがましく思うような事態になったしまったからだ。
 かくのごとく、『宮澤賢治物語』を改竄した何者かのせいで不条理な苦悩を味わわされたであろう澤里であり、柳原である。そしてこの改竄行為を知り、さらには道理に合わないとしか私には思えない『賢治随聞』の出版を知って、関登久也も天国でさぞかし嘆息し、憤ったに違いない。この三人は誰一人として、何一つ悪いところはないのに、理不尽な苦悩をさせられたことに私は同情を禁じ得ない。
 だからもちろん、柳原は証言「○柳」を公にすることを憚る必要は全くなかったのである。関登久也が改竄した訳でもないし、澤里武治が嘘を言っていた訳でもないからである。
 さぞかし天国の賢治は、なぜ私の愛弟子澤里や柳原、そして同信の関をこれほどまでに悩ませ苦しめたのかと、改竄等に関わった人達のことを苦々しく思い、嘆き悲しんでいると思う。

 なお、次頁に現在の「宮澤賢治年譜」と私見のそれとを比較するための【表9 現及び私見・宮澤賢治年譜の比較】を作成してみた。


 さてこれでやっと長旅はゴールを迎えた。いままでのこの「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅を振り返ってみれば、途中ですごすごと引き返すこともなく無事にここまで辿り着けたことが素直に嬉しい。その上、幾つかのことが明らかになったり、新たに見え始めたものもあったりして、今までよりは「羅須地人協会の真実」がまた少し解ってきたような気がする。

<*1:投稿者註> 私の研究手法は、基本的には「仮説検証型研究」によるものであり、その「仮説検証型研究」とは次のような研究手法である。
 「仮説検証型研究」とは、定立した仮説の裏付けがある一方で、その反例が一切ない場合にその仮説は検証されたということになり、爾後、検証されたその仮説は反例が提示されない限りという限定付きの「真実」である、とする研究の手法のことである。当然、反例が一例でも見つかったならば、当該の仮説は即棄却せねばならない。
 ちなみに、広辞苑によれば、
【仮説】自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けた仮定。ここから理論的に導きだした結果が観察や実験で検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる。〈『広辞苑 第二版』(岩波書店)〉
とある。

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