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1 大正15年12月2日の「現通説」

2021-03-24 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議

 ここでは少し視点を変え、「宮澤賢治年譜」という視点から考えてみたい。

1 大正15年12月2日の「現通説」
 先に第三章の〟1「新校本年譜」による検証〝において既に「新校本年譜」による仮説「♣」の検証は一通り終わっているが、ここではその中の大正15年12月2日の「現通説」に焦点を当ててもう少し考えてみたい。

 「現通説」による検証
 それはとりもなおさず次の「通説○現」に焦点を当てるということである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。……………○現
そしてこの「*65」の註釈には次のようになことが書かれている。
*65 関『随聞』二一五頁をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされる年次を大正一五年のことと改めることになっている。
             <それぞれ「新校本年譜」(筑摩書房)325p、326p~より>
 当然この「通説○現」に従えば仮説「♣」は危うい。霙の降る寒い日にチェロを持って上京する賢治をひとり澤里武治が見送った日として大正15年12月2日が既にあるとしたならば、その上にさらに同じようなことが、翌年の昭和2年11月の霙の日にまたもやあったということはまず99%ありえないからである。
 したがって、真相はおそらくそのいずれか一方だけが起こり、他の一方は起こっていなかったということであろう。私の立てた仮説「♣」が間違っているか、あるいは畏れ多いことではあるがこの「通説○現」が間違っているかのいずれかであろう。
 しかし、私としては前章における検証の結果、仮説「♣」は思いの外検証に耐え得ることを知ったので、ここは逆に、不遜ながら「通説○現」について少しく考察してみたい。

 註釈「*65」の意味
 まずは「*65」の註釈について少し調べてみたい。参考のために「旧校本年譜」の同日の記載内容と「新校本年譜」のそれとを比べてみた。すると、註釈「*65」があるかないかの違いだけで他は基本的には違っていないことが分かる。ということは、この註釈は「新校本年譜」担当者(以降A氏とする)が付けた註釈であるということが明らかになる。
 そして次のことも言えそうだ、A氏は註釈「*65」において次のように言いたかったのであろうということが。
・まず、この「大正15年12月2日」の中身については「旧校本年譜」担当者(以降B氏とする)が何を典拠としていたかはA氏にはしかとわからぬが、それは関登久也著『賢治随聞』を元に要約したのであろうとA氏自身は推測している、と。
・そして、『この日付については、澤里は「昭和2年11月頃」と証言しているがそれは「大正15年12月2日」と改めることとすること』というB氏からの申し送り事項があったので、A氏はその指示に従ったまでだ、と。
 そこには以上のような経緯があるのだということを私個人は悟り、この註釈「*65」の意味が自分なりに判読できた。そして、そうかだからこそ「…ものと見られる」とか「…ことと改めることになっている」というもどかしい言い回しをしていたのだ、とここに至って私は初めて腑に落ちてしまった。併せて、第一章の最初において「セロ……沢里武治氏から聞いた話」という節に至って急に私が違和感を感じたのは無理からぬことだったのだと自分を慰めた。

 現通説「大正15年12月2日」の典拠
 さて、私はここではっきりしておきたいことがある、それは、この日のことを「新校本年譜」がこう書いている以上はその典拠は澤里武治の証言以外にはない、ということをである。
 それは「新校本年譜」にある大正15年12月2日の記述についての註釈「*65」に
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。
とあることからも自ずから明らかであろう。
 もちろんこの〝関『随聞』〟とは関登久也著『賢治随聞』のことであり、その「二一五頁」には次のようなことが書かれている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までセロをもってお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった。また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
             <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215pより>
 この「沢里武治氏聞書」の〝橙文字部分〟を知れば、「新校本年譜」がこの聞書をその典拠としていることは明らかである。なぜならば、「新校本年譜」大正15年の12月2日については、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 ……………○現
となっていて、この日の記載内容は皆この「沢里武治氏聞書」の中にあるからである(橙文字部分のこと)。
 併せて、澤里の証言のどの部分が「通説○現」では使われていないかも同様に明らかになる。例えば「少なくとも三か月は滞在する」や「そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」などがそうである。このことは極めて重要なことであり、私ならば絶対省略できな部分である。
 そしてもう一つ見過ごせないことがある。それは他でもない、
 みぞれの降る寒い日、セロを持って上京して行く賢治をひとり花巻駅で見送ったのは昭和2年の11月頃であったと思う。
という意味のことを澤里は証言しているということである。あくまでもこの「見送った」日は昭和2年の11月頃だと澤里は言っているのである。そもそも、それは大正15年12月のことであったなどというようなことを澤里は一言も言っていないのである。
 言ったことが言っていないことになり、言ってないことが言ったことになっているという摩訶不思議な現象が起こっている。ついてはその現象が起こっている理由や原因を、「旧校本年譜」の「大正15年12月2日」を編纂した担当者B氏は読者に是非明らかにしていただきたかった。
 まして、そのような思いは当事者の澤里にすればなおさらであったであろうが、おそらく担当者B氏から澤里は何も知らされていなかったであろう。そのことは例の岩手日報連載の『宮澤賢治物語(49)』の中の澤里の口跡「どう考えても」の一言から直ぐに読み取れる。

 少なくとも三か月は滞在する
 さて、これで「通説○現」の典拠は「沢里武治氏聞書」であることがはっきりしたので、この証言にあってなおかつ「通説○現」からは抜け落ちている、賢治の言ったと思われる「少なくとも三か月は滞在する」の「三か月」に関連して少しく考察してみたい。
 まずは、この際の上京が大正15年12月2日であれば、それから約3ヶ月間の滞京が、通説となっている「現年譜」にはたして時間軸上で当て嵌るかということを調べてゆきたい。
 ではそのために、「新校本年譜」を基にして「大正15年12月2日」前後の賢治の動きを拾ってみよう。
【大正15年】
11月22日 この日付の案内状発送、また伊藤忠一に配布依頼。
11月29日 羅須地人協会講義
12月1日 定期の集りが開かれたと見られる。
12月2日 セロを持ち花巻駅より沢里武治ひとりに見送られて上京。
12月3日 着京し、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 政次郎に二百円の送金を依頼。
12月20日  〃 に重ねて二百円を無心。
12月23日  〃 に29日の夜発つことを知らせる。
【昭和2年】
1月5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪。中野新佐久往訪。
1月7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義が行われたと見られる。
1月20日 羅須地人協会講義。土壌学要綱を講じる。
1月30日    〃    「植物生理学要綱」上部。
1月31日 本日付「岩手日報」夕刊に賢治の写真入り『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」下部。
2月17日 本日付「岩手日報」に1/31付記事を受けて「農村文化について」という投書掲載。
2月20日 羅須地人協会講義「肥料学要綱」上部。
2月27日 「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書発送。
2月28日    〃       〃  下部。
             <「新校本年譜」(筑摩書房)より>
となっている。
 そこで、これら及び前掲の【表4】~【表5】から判断して、どうみても3ヶ月間は滞京できないことを知る。もし当て嵌めるとすれば、この大正15年12月2日上京の際の滞京期間として12月内の一ヶ月弱はさておき、それ以外のある期間、東京にいる賢治と岩手にいる賢治の二人の賢治が存在することになるからである。
 もちろん賢治はその上京の際に「少なくとも三か月は滞在する」と言っただけのことであり、実際そのとおり滞京していたとは限らないという可能性もあろうが、典拠となっているこの「沢里武治氏聞書」において、澤里は引き続いて
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三
              <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と証言している。澤里はこの「三か月」を再びここで駄目押ししていて、澤里の証言は一貫しているのである。したがって、先ほどの「可能性」はほぼ否定されるだろう。
 ここは合理的に考えるならば、澤里の証言するところの約3ヶ月間の賢治の滞京は、現在通説となっている「宮澤賢治年譜」には時間軸上で当て嵌めることがどう考えてもできないことが明らかになった。それゆえ澤里のこの証言「○三」がもし正しいとするならば、言い換えれば、「沢里武治氏聞書」を「通説○現」の典拠とするならば、霙の降る日にひとり賢治を見送った日を大正15年12月2日とすることにはかなり無理があろう。
 それとも「新校本年譜」や「旧校本年譜」の担当者は、それ以外の部分についての澤里の証言は正しいのだが、この証言「○三」の部分だけは澤里が偽っているとでもいう客観的な証拠等を有しているのだろうか。もしそうであるならば、それこそそれらを我々読者の前に明らかにして欲しいものだ。

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