みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

福岡 岸原俊基

2020-09-26 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 では今度は、九州は福岡からの「追悼」である。
   福岡 岸原 俊基
私は先般先生の御他界を聞きました節は実に眞実とは信じられませんでした。ほんとうふに何かの間違であればと祈つたものです。然し父上様の訃報に依り、実に驚き入つたものであります。過ぐる昭和十二年四月中旬桜の花咲く頃九州から、先生を訪ねて雪まだ残る鳥越を訪ねたのでしたが、先生は生徒さん等と雪の中で一生懸命橇を引いて薪出しをして居られました。私を見るなり飛んで来て、初めて面会したのにもかゝはらず、既に数年来の知己にでも会つた如く実に親しく、又熱心にお話をして戴いたものです。私も一緒に、山の作業をして四五日宿泊させて戴いて村塾のことども夜半過ぎ迄語り合いました。私が少ない乍ら村塾運動に努力し得たのも先生のお蔭です。今尚眼前に先生の面影を拝す様です。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)より〉 

 ここまで引いた幾つかの「追悼」によって、松田甚次郎に惹かれた農村青年の多くは『土に叫ぶ』を読んだことが切っ掛けだった、と私は理解していたのだが、この岸原のようにそうでもなかった人物もいたのだということをこの「追悼」によって知ることができる。というのは、『土に叫ぶ』の出版は昭和13年であるのに対して、岸原はそれ以前の昭和12年4月に、わざわざ遠く九州から鳥越の甚次郎の許を訪ねていたことがこの「追悼」から導かれるからである。どうやら、甚次郎の実践活動(村塾運動)は同書出版以前から既に一部の人達には知られており、なおかつ高く評価されていたということがこの「追悼」から示唆される。のみならず、甚次郎の活動に倣って、遠く九州で岸原によって村塾運動が展開されていたということも知った(ついては、花巻の「南城振興共働村塾」と似たような活動が九州でも行われていたということの意味を、いつか私は追究してみたい)。

 しかしながら現在は、甚次郎の実践活動はもうほぼ忘れ去られ、消し去られているのが実態だ。だから賢治は、
 そもそも、私(賢治)と私の作品が初めて全国的に知られるようになったのは、他ならぬ松田甚次郎によってだ。そしてそれが故に、戦前の甚次郎の評価は花巻でも頗る高かった。ところが敗戦を境にして掌を返したように甚次郎を葬り去ったかの如き実態にあるから、人によっては「恩を仇で返した」と私のことを非難する人だってあり得る。私はそのような、人の道を踏み外した様な人間だけにはなりたくない。そしてもちろん、私自身は甚次郎に対して大感謝こそすれ、「農本主義者」だったからということで甚次郎が亡くなった後に葬り去ることはしたくない。それは、私自身のことだって「農本主義者」と見ている人もいるのだから……。
と思い悩んでいて、甚次郎がかつてのように高く評価されることを望んでいるのではなかろうか。
 実は、私が初めて新庄を訪れた今から約十年前は功罪相半ばする評価がなされていた松田甚次郎だったのだが、近年、近江正人氏等によって甚次郎の再評価が進み、かつてのような高評価が新庄では為されるようになってきた。そこで私は、近江氏等の取り組みに倣って、今では殆ど忘れ去られてしまった松田甚次郎がかつてと同じように高く評価されるようにと、微力ながら役立ちたいと希っている。特に地元ここ花巻や、賢治学界周辺に於いてである。そのために、私はこのシリーズ「松田甚次郎の再評価」を投稿し続けているのである。

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《発売予告》  9月21日出版、近々県内書店やアマゾン等にて発売開始。
『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))

を出版しました。構成は、
Ⅰ 賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―            森 義真
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―      上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露―  鈴木 守
の三部作から成る。
            
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