みちのくの山野草

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牽強付会な資料の使い方

2015-05-09 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
12月2日の根拠
 さて、賢治は11月29日に最初の「羅須地人協会の講義」を、そして一日おいてこれまた最初の「定期の集り」を12月1日に開き、そしてその翌日の12月2日に上京したということになっているようだが、なぜこの日にちが特定できたのだろうか。協会員の一人伊藤忠一は当時日記を付けていた可能性があるのでそれによることが考えられるが、管見故かこの日にちが特定できる根拠を私は知らない。
 ちなみに、『新校本年譜』は
一二月二日(木) セロを持ち上京のため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ。とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた。*65
としているから、そこでこの註釈の<*65>を見てみるとそれは次のようになっていた。
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
これを読みながら私は「…見られる…改めることになっている」という表現が「年譜」というものにおいてなされていることに唖然。私は『それはないだろう』と嘆くしかなかった。

あまりにも牽強付会な
 釈然としないながらも〝関『随聞』二一五頁〟を確認すると
(1) 『賢治随聞』(昭和45年)
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました
             <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書、昭和45年)215p~より>
となっている。
 つまりこの典拠は、賢治の愛弟子澤里武治の証言であると見られるとしていることがわかる。しかし、この証言を読むと直ぐに変だということに気付く。それはもちろん、「昭和二年十一月」にであり、「三か月間」にである。なおかつ詳しく調べてみても、『賢治随聞』のどこにもこの時の上京が大正15年の12月2日であったなどというようなことは書かれていない。あくまでも、この愛弟子の証言に基づくならば、その出発は「昭和二年十一月ころ」であり、「大正15年の12月」では決してない。しかもきわめて問題を孕んでいる「三か月間」については、年譜に全く触れられていない。もし12月2日の記載内容の根拠がこの澤里武治の一連の証言であるとするならば、そこに述べられている「三か月間」ということも当然賢治年譜に反映せねばならぬはずだが、このことを現通説に反映させるとたちまち『新校本年譜』は幾つかの大きなほころびをもたらす。現在は恣意的な資料の使い分けがなされていているからとりあえずはこれを取り繕っていることができるが、もちろん本来そんな証言の使い方は許されるべきことではないから、それはあまりにも牽強付会なことだと言わざるを得ない。

賢治研究に自由を
 しかも、
 澤里武治の証言が恣意的に使い分けされているという不当がここにあることは少し調べれば誰でも直ぐ気付くことのはずなのに、宮澤賢治研究家の誰一人としてこの不当を少なくとも公的には指摘も、指弾もしていないはずだ。
それ故に私は、(もちろんそんなことなどあろうはずがないとは思いつつも)こんなことでは「宮澤賢治研究」には自由がないのではないかとつい疑いたくなってしまったり、自由のないところに研究の発展はないのではなかろかとつい生意気にも口走ったりしてしまいそうになる。
 その一方で、以前私がこのことに関連してブログに投稿し、それに関して実証した拙著『羅須地人協会の真実 ―賢治昭和二年の上京―』を出版したところ、ある一時期なんと、「宮澤賢治奨励賞」を受賞した京都在住の宮澤賢治研究家H氏やその仲間たちから、私の知らないツイッター上で面白おかしく論って頂いたものだった。具体的には、宮澤賢治研究家でもない素人の私でさえも気付くこの恣意的な資料の使い方を私がおかしいことだと公に発表したことに対して、
 鈴木守が著した『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』等における主張は『根拠なき「陰謀論」』であり、『賢治学会にはその「陰謀」があったと鈴木は唱えている。それをこのまま放置できない』
というような意味の決めつけ方をH氏等からしていただき、さらには、
 『このまま行くとほんとうに墓穴を掘ることになりますよ』
というようなブラフ等を私のブログのコメント欄に束になって寄せて頂いたりしたものだった。かつてはこのようなことが賢治研究でも実際にあったということを私は聞き及んでいるが、そのような前近代的なことが今の時代にもあるということを実際に経験して私は少し恐ろしさも感じたが、それ以上に情けなさを禁じ得なかった。当たり前のことだと私は思っているのだが、

   おかしいことに対しておかしいと言える自由を賢治研究においても下さい。

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