みちのくの山野草

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谷川徹三の講演(谷川に問いたい)

2021-05-04 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 今回もまた谷川徹三の「賢者の文学」からである。

 さて、谷川は、「その実践を、宮沢賢治は自分の生まれた地方の農民達の友としてしたのであります」と断定していたわけだが、その断定の根拠とおぼしきことがらが引き続いて次のように語られていた。
 実際、賢治の文学は、その生まれた東北地方と離して考えることはできません。詩の大部分は、その地方の自然と風物をうたったものですし、その社会的関心も、この地方特有の問題といつも具体的に結びついております。「雨ニモマケズ」の中に「サムサノナツハオロオロアルキ」という言葉があって、この言葉が時どき問題になるようですが、これは東北地方の冷害を知っている人には、直ぐ分る言葉であります。この冷害について如何に賢治が心を痛めていたかは、彼の詩の中にも、これに関するものが沢山あることによって知られます。童話「グスコーブドリの伝記」では、主人公ブドリは、この冷害予防のために、人工的に火山を爆発させ、その作業に自ら進んで自分の身を犠牲にするのであります。賢治はそういう英雄的な死に方はしなかった。しかし賢治の文学はどこまでも実践者の文学であり、その死も実践者の死であったと私は考えています。
            〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)28p〉

 さて、谷川の言っていたとおり、「この冷害について如何に賢治が心を痛めていたか」もしれないが、賢治がそのことに対して如何なる実践をなしたのかというと、私が今まで検証してきた限りではそれほどのことは見つからない。それは、そもそも賢治が盛岡中学を卒業した大正3年~昭和5年までの間に岩手で冷害は起こっていなかったからである(いわゆる「「気温的稲作安定期」)。しかも、岩手県が冷害だったと言われる昭和6年でさえも、賢治の地元稗貫郡の稲作は平年作以上だった
 のみならず、「ヒデリノトキハミダエヲナガシ」ていたかというと、それさえも危うい。ちなみに、羅須地人協会に移り住んだ大正15年、稗貫も旱魃だったが、隣の紫波郡は大旱害であったった。そこで、続々と義捐の手が差し伸べられたのだが、その時に賢治が救援したという証言も資料も何一つ残されていない。また、昭和3年も「ヒデリノトキ」だったのだが、この年の稗貫郡は平年作以上だった
 よって、「羅須地人協会時代」の賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」したこともなければ、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない<*1>。となれば、残された時代については推して知るべしだ。

 さて、そこで私は谷川に問いたい。
 はたして裏付けを取ったり、検証したりした上で論じているのですか、と。これでもまだ、「賢治の文学はどこまでも実践者の文学」だと仰れるのですか。
と。

<*1:投稿者註> 詳しくは『本統の賢治と本当の露』の「㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治」をご覧あれ。

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