みちのくの山野草

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一体何を根拠に?

2017-04-14 10:00:00 | 岩手の冷害・旱害
 たまたまあることを検索していたならば、あるブログに次のようなデータが載っていた。
 岩手県の稲の収穫高について概略すると、日照不足による凶作が頻繁に起こっています(注4)。
1902(明治35)年 冷夏・暴風雨による大凶作 収穫高21.9万石 減収率62%
1905(明治38)年 冷夏・暴風雨による大凶作 収穫高19.3万石 減収率67%
1913(大正2)年  凶作 収穫高82.0939万石 
1924(大正13)年 旱害 収穫高106.5866万石
1926(大正15)年 豊作 収穫高114.7774万石
1927(昭和2)年 冷害による凶作106.1578万石
 しかしいくら何でも
1926(大正15)年 豊作
1927(昭和2)年 冷害による凶作
はないだろうと、一体何を根拠にこんなことを言っているのだろうかと、私はぼやくしかなかった。

 なんとなれば、
 私の認識でいえば、岩手県の米の豊凶は、
    大正13年ヒデリ
    大正14年豊作
    大正15年ヒデリによる不作
    昭和2年平年作

    昭和3年ヒデリ
    昭和4年ヒデリによる不作
    昭和5年平年作
    昭和6年冷害による不作
だからだ。
 そしてその根拠は例えば、『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』に基づけば、
             《図表1》

  〈『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』(中央気象台盛岡支台編 中央気象台盛岡支台出版 昭和13年)より〉
となるし、当時の『岩手日報』の報道からも次のような米の実収高が判るからである。

 あるいはまた、こんなデータ

もあるからだ。
 これでも納得できなければ、『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)によれば以下の通りだからだ。
 《大正2年~昭和9年の間の冷害と干害発生年》
 大正 2(1913)年冷害(66)
 大正 5(1916)年干害
 大正13(1924)年干害
 大正15(1926)年干害
 昭和 3(1928)年干害
 昭和 4(1929)年干害
 昭和 6(1931)年冷害
 昭和 7(1932)年干害
 昭和 8(1933)年干害
 昭和 9(1934)年冷害(44)
<注:( )内は作況指数で、80未満の場合の数値>
 そして、当時の岩手県の水稲反収の推移は次の通りで、

だからである。
 私の場合はどこをいくら探し回っても、
1926(大正15)年 豊作
1927(昭和2)年 冷害による凶作
を裏付ける客観的なデータはちっとも見つからない。否定するものばかりが見つかる。くどくなるが、歴史的事実はあくまでも
    大正14年豊作
    大正15年ヒデリによる不作
    昭和2年平年作

のはずだ。一体何を根拠にして前掲のブログの管理者はこんなことを投稿しているのだろうか。ご自身で一度裏付けを取ってからなさっておられるのだろうか……。

「冷害空白時代」あるいは「気温的稲作安定時代」
 そしてそもそも、「1927(昭和2)年 冷害による凶作」とあるが、大正2年の冷害による凶作以降の18年間は岩手県では冷害がなかったことはよく知られた事実のはずだ。だからこの時代は「冷害空白時代」あるいは「気温的稲作安定時代」とも呼ばれている。ところが、賢治研究家の場合はあまりこれらのことをご存じないのだろうか、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった(しかもこれらは全くの事実誤認なのだが)という同研究家達の断定表現に私はしばしば私は遭遇する<*1>。とはいえ、当然のことながら、「1927(昭和2)年 冷害による凶作」などという歴史的事実はどうあがいても見つからない。この年は冷害でもなかったし、作況はほぼ平年作だったからである。
 ちなみに、この「冷害空白時代」あるいは「気温的稲作安定時代」に関しては、前に〝「冷害空白時代」〟において投稿したように、『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)によって明らかになることだし、あるいはまた下掲したグラフのように、農学博士卜蔵建治氏も『ヤマセと冷害』(成山堂書店)の15pにおいて指摘していることでもある。

 さらには上掲表の「表2 水稲収穫量と冷害年の気象(岩手県)」の中の「大正3年以後冷害空白時代」という表記があることからも、専門家の中ではよく知られていたということが判る。言ってみれば、賢治が盛岡中学を卒業してから、下根子桜を撤退して実家に戻るまでの期間に、岩手県では冷害はなかったのである。この時代は「冷害空白時代」だったのだ。
 しかも、昭和6年は周知のように確かに岩手全体としてはかなりの冷害だったが、稗貫はそれどころか平年作以上であったことは、先に掲げた《図表1》等から明らかにできる。それ故、賢治は実質的には冷害を身近に経験したことは結局ないとも言える(もし身近に経験できたとすれば、それは昭和9年の作況指数44という冷害による凄まじい凶作だが、その時には賢治はもう既に歿していた)。
 つまり、「羅須地人協会時代」前後の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思っても実はできなかったのだった。客観的には、当時の賢治には、
    サムサノナツハオロオロアルキ
しようにもそのようなことなどは現実にはできなかったのだった。

 なお、先のブログ上での〝日照不足による凶作が頻繁に起こっています(注4)。〟の注釈をを見てみると、
注 3堀尾青史『宮沢賢治年譜』 筑摩書房 1991
  4堀尾青史前掲書
   大島丈志『宮沢賢治の農業と文学 過酷なイーハトーブのなかで』 
   蒼丘書林 2013
となっているが、この「日照不足による凶作が頻繁に起こっています(注4)」とは上掲年の何年のことを指しているのだろうか。前掲の『岩手県農業史』等から判るように、賢治が活動していた時代に頻繁に起こっていたのは「日照不足による凶作」ではなくて、その逆の「干害」の方である。
 また大島丈志氏は、
1926(大正15)年 豊作
1927(昭和2)年 冷害による凶作
などというようなことを、『宮沢賢治の農業と文学 過酷なイーハトーブのなかで』では少なくとも述べてはいないはずだ。

<*1:投稿者註> 不思議なことに、昭和2年の賢治と稲作に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いて述べている。
(1) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。<『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p>
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(筆者略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。<同、173p>
(2) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p>
(3) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p>
(4) 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。<『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)所収の年譜より>
(5) (昭和二年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。<『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p>
(6) 昭和二年(1927 年)は未曽有(ママ)の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました…(筆者略)…」とある。<帝京平成大学石井竹夫准教授の論文より>
(7) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p>
(8) 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
 つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。しかしこれは皆全くの事実誤認である。

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