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昭和6年花巻は冷害ではなかった

2016-03-09 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
昭和6年岩手は冷害と云われているが
 昭和6年7月10日付『岩手日報』の記事の中に宮澤賢治の名が出てくる次のようなものがある。

文字に起こしてみると、
 本年稲作は平年作以下か 宮澤元花農教諭予想を発表 花巻地方の分蘖状況
花巻豊沢町元花巻農学校教諭宮澤賢治氏は、農事の実際的研究家として知られてゐるが宮澤氏は過去数年間にわたり、七月初旬の花巻地方における水稲の分蘖状態に就いて仔細な研究をつゞけてゐる、宮澤氏は七日水稲の生育分蘖に就て左の如く発表した
七月初旬における花巻地方の稲作は六本乃至十本の分蘖を見たが例年十本乃至十七八本に比較するとき非常な相違で発育も不良でありこゝ一週間以後にはこの倍の十二本乃至二十本まで分蘖するが、例年より分蘖の程度が少なく、若し、七月二十日以後にこれ以上分蘖した所でそれは出穂結実の可能性はなく早くも平年作以下の減収と観測してゐる、殊に昨今の朝夕の冷気が稲作以上頗る有害である
となり、賢治は実際の稲の発育状況から分析的に考察して昭和6年の米の作柄を「平年作以下の減収」予測していて流石だ、と思った。
 実際、昭和6年の岩手県の米の実収高は下図表

              <素データは『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
から明らかなように、かなり悪くて
    1.66石/反
である。たしかに、賢治の予測どおりであった。
 一方で、当時の岩手県の米の実収高は『岩手県農業史』(岩手県、森嘉兵監修)262pによれば
    T14~S4平均:岩手県=1.936石/反、稗貫=1.793石/反
    S5~S9平均 :岩手県=1.718石/反、稗貫=1.769石/反
だから、この当時は
    岩手県平年作=1.827石/反
    稗貫平年作=1.781石/反
であったとほぼ判断できる。したがって、
    1.66/1.827≒0.909
だから、大雑把に言えば
    昭和6年の作況指数は91
と言えそうだ。すると、昭和6年の岩手の米の作柄はいわゆる〝不良〟と判断できる。
 つまるところ、上掲の賢治の作柄予想も私は知ったこともこれあり、昭和9年の冷害ほどではなくとも、
    昭和6年の花巻の米の作柄もかなり悪かった。
とばかりに思っていた。

昭和6年稗貫は冷害ではなかった
 それでは、昭和4年~6年の稗貫郡等の米の実収高を見てみよう。それは下図表のようになる。

 たしかに、
   昭和6年の岩手県の米実収高=1.66石/反
だからかなり作柄が悪い。そこで今までの私は、当然、稗貫もまた同様であったであろうとすっかり思い込んでいた。
 ちなみに、以前『岩手県農業史』(岩手県、森嘉兵監修)の841pに、
 昭和6年 災害現象
 早春雪が異常に多く4月以降気候不順で冷夏、多雨が続き凶作となる。米収穫高98万9,000石で平年より8%の減収となる。
とあり、しかも、『岩手県気象年報 昭和4年、5年、6年』(盛岡測候所編)中の『花巻観測所』のデータによれば、 

となるので、たしかに昭和6年は花巻でも冷夏・多雨の傾向が顕著だから、それを少しも疑わずにいた。
 ところがこの「米実収高」の図表から明らかなように、それは全くの勘違いであった。なんと、
   昭和6年の稗貫の米の実収高=1.82石/反
で、もっと精確には1.823石/反であり、「T14~S9平均」(大正14年~昭和9年の間の岩手県の平均米実収高)1.827反/石と比べて、
   1.823/1.827=0.998≒1.00
だから、大雑把に言えば平年作と言えそうなので、
 昭和6年の稗貫の稲作は冷害でも何でもなかった。同年の稗貫の実収高は当時の稗貫の年平均1.781石/反を上回っているし、当時の岩手県の年平均とほぼ同じだから、〝平年作〟と言ってもいいだろう。もちろん、花巻は稗貫郡だから、
 昭和6年花巻は冷害などではなくほぼ平年作であった
ということになるのであった。したがって、岩手県全体のことはさておき、昭和6年の稗貫や花巻の稲作の出来を賢治が心配する必要性はあまりなかったということになる。
 ついつい、〔雨ニモマケズ〕が手帳に書かれたのが昭和6年の11月3日だということだから、その中の一節
    サムサノナツハオロオロアルキ
にひきづられて私は、賢治は病の床に臥しながら近隣の農家の冷害による不作を憂い、今病に伏している自分にはそれができない身だが、せめてそうありたいとねがってこの手帳にこの一節も書いたに違いないとばっかり思っていたが、少なくともそのようなことを憂える必要性は賢治にはどうやらなかったと言える。近隣の稗貫の農家は、紫波や和賀の農家とは違って、幸い平年作だったから皆ひとまず安堵していたはずだからだ。
 一般的にもそうであるように、賢治の書いたものをそのまま「現実」には還元できないのだということを常々心掛けているつもりでも、裏付けも取らず、検証もせぬままに、「昭和6年の花巻は冷害だった」が「現実」であったと知らず知らずのうちに勘違いしていた。言い方を換えれば、この「サムサノナツハオロオロアルキ」とは、もしかするとこの昭和6年の岩手県の「冷夏」「冷害」に対して言っているのではなく、単なる賢治の一般論、観念論であった可能性もある、ということになりそうだ。

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