〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉
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花巻駅までチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(筆者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 …………★
〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
という、武治が自説の修正をしたともとられる〝★〟が見つかったからだ。それ故、この〈仮説2〉(29p)には反例が全くないと言えるのかという指摘がなされ得る、という弱点があった。そこでこれまでの私は、この〈仮説2〉には反例が全くないとは実は言い切れずにいた。
ところが、先に26pで掲げたように、澤里武治(79歳歿)は、
大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
(傍点筆者)
と晩年(74歳頃)でも書いていたことをこの度私は知ったし、こちらは〝★〟とは違っていて、「大正十五年」ではなくて「大正十五年十一月末日」だった。つまり、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送ったという月は、定説の「12月」ではなくて晩年でも「11月」のままだった。武治は終始一貫して「11月」であると主張していたことになる。したがって、彼は修正していたとまでは言えないと私には判断できた。
なぜならば、もし武治が本心から自説の間違いを認めて修正したということであれば、定説ではその上京の日は「大正15年12月2日」となっているので、「大正十五年十一月末日」であってはそうならないからである。一方で、武治が「大正十五年」と書いていたのは、不本意ながらもやむを得ず「定説」と折り合い(〈註二〉)を付けて妥協するしかなかった(あるいは逆に、「11月」は彼の矜恃だった)ということも充分にあり得るからだ。
だから『新校本年譜』の担当者がまず為さねばならなかったことは、件の「三か月間の滞京」が、定説となっている「大正15年12月2日、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送った」の反例になっているということに気付くことであり、次に、この「定説」には反例があったのだからそれを棄却(〈註三〉)することであった。しかし現実には、前者も後者も為されなかった。それは逆に言えば、武治は万やむを得ず折り合いを付けたという蓋然性が極めて高いということであり、おのずから〝★〟は〈仮説2〉の反例とまでは言えない。よって、この仮説の反例は今のところ見つからないからその検証が完了したので、今後この反例が見つからない限りはという限定付きで、〈仮説2〉は「真実」となる。
さて、ここまでの「仮説検証型研究」によって、賢治が大正15年12月2日に武治一人に見送られながらチェロを持って上京したということは事実であったとは言えないということを、一方で、賢治には昭和2年11月頃からの三ヶ月間に亘るチェロ猛勉強のための長期滞京があったという、新たな真実を明らかにできた。同時に、「三ヶ月間の滞京」期間もこれで問題なく同年譜にすんなりと当て嵌まるので、先の致命的欠陥もこれであっさりと解消できた。
したがって、この〈仮説2〉に対する反例が今後提示されない限り、最初の《表1の1~4「修訂 宮澤賢治年譜」》にも掲げたように、本当のところは、
・大正15年12月2日:〔柳原、〕澤里に見送られながら上京(この時に「セロを持ち」という保証はない)。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
であったとなる。つまり、新たな真実が明らかとなったので、現「賢治年譜」はその修訂が迫られている。
最後に、武治宛賢治書簡は本来は約17通程残っていたのだが、どういうわけか「大正15年12月12日付」の一通については現在行方不明であるということだから、この書簡が発見されることを願ってこの節〝㈡〟を終えたい。それが発見されれば、一連の顚末の真相がさらにはっきりするであろうからだ。
(詳細は拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』を参照されたい)
なお、この節の私の主張は、いわば「賢治の昭和二年上京説」は、拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」に当たる。その投稿の最終回において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、同氏からこの〈仮説2〉に、そしておのずから、チェロ猛勉強のための「賢治の昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと認識している。
㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
さて、生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめた最大の功労者はと言えば、今では殆ど忘れ去られてしまっている松田甚次郎だ。まさに「賢治精神」を実践したとも言える彼は、その実践報告書を『土に叫ぶ』と題して昭和13年に出版すると一躍大ベストセラーに、それに続いて翌年に松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』を出版すると、これまたロングセラーになった事が切っ掛けだった。その『土に叫ぶ』の巻頭「恩師宮澤賢治先生」を甚次郎は次のように書き始めている。
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。 〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p〉
そこで私は思った、この旱魃による被害はさぞかし相当深刻なものであったであろうと。早速、大正15年の旱害に関する新聞報道を実際に調べてみた。するとやはり、この年の『岩手日報』には早い時点から
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現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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