《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
かつての私は、「羅須地人協会時代」の賢治は「己に対してはストイックで、貧しい農民のために献身した」とばかり思い込んでいたのだが、ここまで実証的に調べてみた限り、客観的には同時代に貧しい農民たちのために如何ほどのことを為し、如何様に献身したかというとそれらはかつての私が抱いていた賢治像からは程遠いものであった。なぜならば、そのよう賢治の具体的な実践が殆ど見出せなかったからである。よって、この時代の賢治は、それが一番ふさわしい表現かと問われれば自信はないものの、「不羈奔放」であったという表現がやはり結構適しているのではなかろうかと最近は思えるようになってきた。実際、賢治が亡くなった通夜の席で賢治が天才であるということについて父政次郎は、
あれは、若いときから、手のつけられないような自由奔放で、早熟なところがあり、いつ、どんな風に、天空へ飛び去ってしまうか、はかりしることができないようなものでした。私は、この天馬を、地上につなぎとめておくために、生まれてきたようなもので、地面に打ちこんだ棒と、綱との役目ををしなければならないと思い、ひたすらそれを実行してきた。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)256pより>と述懐したというし、小田邦雄も「宮澤賢治の両親について」の中で、
故賢治の不羈奔放の生涯の影には、この翁(投稿者注:父政次郎のこと)の眼に見えない影響を見遁すことはできない。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和33年)245pより>とも述べているから、それ程無茶な表現でもなさそうだ。
念のため、私が持っている電子辞書(PW-M800、シャープ)に依って確認すれば、
不羈奔放:ほかから束縛を受けないで、自分の思いどおりに行動すること。
とあるし、
不羈:① しばりつけられないこと。束縛されないこと。おさえつけにくいこと。
② 才識すぐれて常規律しがたいこと。
奔放:伝統や慣習にとらわれずに、思うままにふるまうこと。
ともある。
たしかに賢治は、才識がずば抜けて優れていて常規ではなかなか律し難いし、実際、「羅須地人協会時代」の賢治はそのとおりであり自分の思いどおりに行動していた。それだけに、常識的に見れば、社会人としての賢治は褒められたものでもない点も少なくない。しかし、そこだけを切り取って論っても賢治のことを正しく理解できないことはほぼ自明だろう。
ところで、この「不羈奔放」によく似た表現として「天馬行空」とか「天馬空を行く」というものがあるというが、同電子辞書によれば
天馬空を行く:天馬が思いのままに空を駆けめぐるように、考え方が自由奔放であるさまにいう。
とある。この空を行く「天馬」と前掲した政次郎の譬えたところの「天馬」とはそっくりだ。ただし、ここで政次郎が言っている「天馬」とはあくまでも創作活動においてであり、行動や人柄に対してではなかろう(それは、例えば露に関して賢治が父から強く叱責されているということからも裏付けられるだろう)。さて、そこで私が辿り着いたのが、
「羅須地人協会時代」の賢治=「不羈奔放」な賢治
という見方であり、しかも「不羈奔放」な二人の賢治がいて、
「不羈奔放」な賢治=「天空の賢治」+「地上の賢治」
という等式がそれぞれ成り立つのではなかろうか、ということである。言い換えれば、一人の「不羈奔放」な賢治はあくまでも地上を歩いた生身の賢治であり、もちろん空を飛んでなどはいない。あくまでも、空を飛び宇宙を駆け巡ったのは彼の精神であり、その創造力だということである。つまり、これがもう一人の「不羈奔放」な賢治であり、いわば「天空の賢治」であり、創作に類い希な才能を有していた賢治のことである。そして、この「天空の賢治」については多くの優れた賢治研究家が多くの優れた論考等を残しているだろうし、私にはそのようなことを論ずる力はないので何も申し上げることはない。ただし問題は「地上の賢治」である。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
◇ 現在、拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、以下のように、各書の中身をそのまま公開しての連載中です。
『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 『羅須地人協会の終焉-その真実-』
『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) 『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』
お早うございます。
はい、仰るとおりで戸惑ってばかりおります。
なにしろ私が綴っているものは形而下のものばかりなのに、辛さんの場合は形而上のものが多いから私がいくら背伸びしても、爪先立ちしても指先にもかすりません。例えば、
小生このが、〈賢治言語ゲーム〉と〈漱石言語ゲーム〉との間をに密接な因縁性起関係性が働いているんではないかしらん、と夢想を始めた機縁こそが、この、「『不貪慾戒』での高等遊民という語用」だった訳です。
道く、「そのときの高等遊民は今はしっかりした執政官だ」、と。
では、この文脈での〈高等遊民〉とい語は、漱石文脈でのそれなのか、一般流通語文脈でのそれなのか、という難有い検証問題への見性(けんしょう)あるいは検証が必要に、と。
についてですが、私の頭の中は液状化現象を起こしてしまいます。
それから、
「野の聖者・貧しい農民の実践的支援者としての賢治像」は小生の感心の埒外なのでした。
についてですが、まさに私はこの「野の聖者・貧しい農民の実践的支援者としての賢治」の真偽を知りたかったの一点に尽きます。千葉恭なる人物の存在を調べ始めた時点で、私はパンドラの箱を開けてしまったということに気付いてしまったたことの必然だったと思っております。そして私が見るべき箱の中のものはほぼ見尽くしてしまいましたので、そろそろお終いにしようかなと考えております。
所詮、私は地べたを這い回る芋虫です。だから「地上の賢治」の傍まで行って分析的に見ることはできましたが、そこまでが限界です。これ以外のことやこれ以上のことは空を飛べない芋虫にはできませんので、後は、空を駆けめぐることができる辛さんのエリアです。つきましては、そう遠くない時機に〝辛ワールド〟を活字にして下さることを期待しております。
鈴木 守
譬えば、「吾、太平様の橋とならん。Be mbitious.」という〈大志〉を、「根源的に異質な文化や思想の間の架け橋となって、両者の抗争争奪のではなく協和協働の脚下となりぬべし」というが如き思想表現としてのr道得と道破できたなら如何。 また、〈大同大等としての全体性〉つまり「トータリティとしての全体性」ではなく、「ホロニティとしての全体性」を思量に入れて、『農民芸術概論綱要・序文』を読み進めてみると。「宮澤賢治は国柱会の狂熱的な実践的信仰者だったことからも解るように、急進的な坐延滞全体主義(トータリタリアニズム)者で国粋主義者だったのだ!」といった、小生から見ると観ると愚癡無明としか思えない賢治像も。
また、新渡戸稲造が一高校長を去らざるを得なくなった端緒の、明治四十四年の「徳富蘆花による謀反論事件」、つまり、日露反戦アナーキストと目された秋水徳富伝次郎等による明治天皇暗殺計画捏造、公的テロル事件に対する見得(けんて)を巡る動きなどは、…。大正三年、賢治が盛中を卒業した年、稲造を慕った教えたちが、「稲造師を囲む会」につけたのが、〈アゼリア会〉。細君のエミリーが〈アザリア(五月)〉が大好きだったことに因んだ命名だとか。
盛岡高等農林に進んだ賢治たちが自分たちの文芸同人誌に〈アザリア〉という名を冠したのは如何。通説では、「保坂嘉内がその名を提案した」ということになっているのだが、『アザリア』が廃刊となり科に嘉内が放校処分をくらう因となった『社会と自分』と題する檄文の愚癡にして幼稚無明なることを念うと、…。賢治から嘉内への手紙が用いているレトリックの〈オクシモロン(撞着語法)〉傾向の強さの因縁や如何、などと。 とかなんとか。守先生には申し訳なく思っているのですが、小生にとっての賢治は、「漱石と並ぶ、あるいはそれ以上の言語ゲーム実験者であり、実は非戦リベラリストではなかったのではないか?」という仮説思考実験の対象ということに。「野の聖者・貧しい農民の実践的支援者としての賢治像」は小生の感心の埒外なのでした。
そんな訳で、〈詞集『春と修羅』序〉から『『不貪慾戒』を経、『農民芸術概論綱要』と『1927年時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』と『藤根禁酒会へ贈る』を過ぎて『雨ニモマケエズ』へと向かった賢治の〈道の旅路〉の裏(うち)に蔵(かく)された〈文(あや)〉の〈理(コトワリ)〉と遊ぶ舞踏は否応もなく、……。
その先祖は花巻に縁をもち、当人は盛岡で産まれたのが新渡戸稲造。稲造の先輩で、内村鑑三らを導いたのが花巻出身の佐藤昌介(札幌農学校第一回生、同校教授、北海道大学初代学長)という存在者を賢治が意識していなかったとは考えてみようもないのですが、…。尚、昌介の子で、昭和6年に組合立として花巻小学校内に創設された花巻中学校(花北高)の初代校長を務めた佐藤昌(だったかしらん)は、賢治の死に際して高村光太郎、草野心平らと集まって写真に撮影っている人でセウ。
2016,2,29 16:27 文遊理道樂遊民洞の道く
またまた横道・道草に逸脱逸民いたします。秀逸なれば上品(じょうぼん)なれど、劣逸にして下品(げぼん)なるべし、などと。また例のごとくコトバアソビに興じ過ぎて戸惑わせてばかりで御免ください。
小生は、正直に言うと、三十歳ぐらいまでは「コトバアソビの天才」あるいは「自前造語の天災スキゾフレニア」みたいな〈宮澤家のボンボン〉による「道取・道破・道得への求道」に迷惑させられて敬遠していたというのが実際でした。
実際、小学生の頃、「童児用童話つまり〈メルフェン〉とされていた『注文の多い料理店』を読んだ心象は、「愉快だなぁ」ではなく「ナンカウスキミワルイ」というものでした。
で、比較的真面目に〈阿修羅賢治言語ゲーム〉に取り組み始めた端緒の一つが『不貪慾戒』に用いられていた〈高等遊民〉という四文字なのでした。しかも、それが、「タアナアも欲しがりそうな上等なさらどの色になっていることは」という〈レトリック(文彩・修辞・譬喩)〉とセットにして語用(言語ゲーム)化されていることなのでした。
小生このが、〈賢治言語ゲーム〉と〈漱石言語ゲーム〉との間をに密接な因縁性起関係性が働いているんではないかしらん、と夢想を始めた機縁こそが、この、「『不貪慾戒』での高等遊民という語用」だった訳です。
道く、「そのときの高等遊民は今はしっかりした執政官だ」、と。
では、この文脈での〈高等遊民〉とい語は、漱石文脈でのそれなのか、一般流通語文脈でのそれなのか、という難有い検証問題への見性(けんしょう)あるいは検証が必要に、と。
明治末期から大正期、昭和初期にかけて流行したという〈高等遊民〉は揶揄語。つまり、「裕福な親の脛齧りニート」つまり「文字通りの金持ちボンボン遊興趣味人」ということに。漱石文芸論でも、『それから』の〈長井代助〉、『こころ』の〈先生〉といった、「高い教養と趣味をもっているが定職を持たず、裕福な親や豊かな遺産を食い潰しているゴクツブシ」として、漱石自身も批判的というよりは非難的に用いている、という見解なども。 しかしながら、一方で、『吾輩は猫である・二』での〈吾輩猫〉による〈珍野苦沙弥〉〈水島寒月〉〈迷亭〉〈越智東風〉などへの揶揄的形容としての〈太平の逸民〉に始まり『草枕』での「藝術を楽しむ境位としての〈非人情(無情や無人情ではない)〉」を経て、『彼岸過迄』に登場する、〈松本恒三〉なるキャラに自称させる「世の中に求める所がないのが高等遊民ですという語用で。文字通りに読めば、「世間的出世や千金子慾に囚われない人人(にんにん・一個人)」、といった意味合いでしょうか。
で、斯なる身心境位(しんじんきょうい)は、「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じれば、安い所に引き越したくなる。どこに越しても住みにくいと悟った時に詩が生まれて画ができる。」という道得(名文名言)で始まる『草枕・1』の、次の如き道得と。
〝 かく人世を観じ得るの点に於て、かく煩悩を解脱するの点に於てかく清浄界に出入(しゅつにゅう)し得るの点に於て、又この不同不二の乾坤を建立し得るの点に於て、我利私慾の羈絆を掃蕩するの点に於て、
――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。〟
というのも、もし賢治が、禅仏教的境界(きょうがい)やら老荘的境位に対する感心を深めていたと仮定すると、斯なる文脈で提言されている意味での〈高等遊民〉、というよりは〈高踏遊民〉つまり〈枕流漱石(ちんりゅうそうせき)〉ならぬ〈枕石漱流(ちんせきそうりゅう)〉つまり「世俗の権威権力や名利の羈絆に束縛され振り回されない人生」こそが〈ほんとうの幸福〉なのだという提言とも。尤も、流石漱石流は、鴨長明流や西行流などとは違って、「世俗世界に生きて妻子を育てる」という〈世俗生活者夏目金之助〉と〈送籍者吾輩猫漱石〉との〈コムプレックス(複合体)〉を生きたこと。
漱石の一高帝大講師による年俸は1500円つまり今日の1500万円ほどでかなりの高級とり。それが親友の狩野亨吉(最初の漱石全集編者.一高校長から京都帝大教授. とはいえ、狩野が京都に移った後、荒れていた一高には二年間校長がいなかったが、西園寺内閣文相の牧野伸顕のひきと帝大教授を務めていた後藤新平の押しで一高校長に就いたのが新渡戸稲造。稲造を国際連盟事務次長に推したのもこの二人.)の如く帝大教授職への道に入れば、その名利は桁違い。 にも関せず、海のものとも山のものともつかない朝日新聞嘱託小説家の道を選んだのは、…。そして、究めつけは国からの博士号授与を断ったこと。今日でいえば、文化勲章辞退。小生は、ノーベル文学賞は受けたのに文化勲章は辞退した大江健三郎が自由主義史観者たちから国賊・非国民という罵詈雑言、誹謗中傷を浴びたのと、…。
さて、「世間的名利を生きるより幸福だ」 ということの必要条件としての「我利私慾の羈絆の掃蕩」と並べられた、というよりは、それに開眼する為の必要条件と道った方がよさそうな、「不同不二の乾坤の建立」という禅語レトリックで道破道得されている身心境位境位や如何に、というと。
〈不同不二〉の同意語は〈不一不二〉〈不同不異〉〈非同非異〉そして〈二而一一而二〉、つまりは〈万物無差別〉。この場合の〈一〉 は〈同一性〉〈全体性〉の意。〈二〉 は〈別異性〉〈部分性〉の意。固より、〈不同不二〉は二値形式論理パラダイムに鯤癡鯤t3詠根柢的に相矛盾する両義的論理ですね。禅哲学では、有無肯否二値概念分節以前の〈父母未生以前本来之面目〉に立ち返った思量而非思量が必要とされる難有い玄道宙宇。ナンノコッチャ!?
ただここで、〈不一不二〉と来たなら、「文殊の不二之法門、維摩雷の如く黙す」 という仏教エピソードが。固より、島地黙雷という名の〈黙雷〉という号はその逸話からのもの。で、〈大等〉という名も同意。「大同・大等・大拙・大志の大」は、〈ビッグ〉や〈ラージ〉どころか〈グレート〉の意味ではなく〈アンビ(両極性・双面背反性)〉の意、その形容詞形が〈Ambitios〉、名詞形が〈Ambition〉だなどと勝手に解釈すると、……。 2016,2,29 15:15 文遊理道樂遊民洞の道く
今日は。コメントありがとうございます。
ただし、私には高度過ぎてあたふたしております。なにしろ、「不羈奔放」に関しては辛さんのように長い期間に亘って思索してきた訳ではなく、私は直感的に結構当てはまる表現だと思ってこの四文字に飛びついてしまったので今四苦八苦しております。
でもお陰様で、
「不羈奔放」な賢治≒「高等遊民」の賢治
という近似式が成り立つことに気付きました。
当時、賢治のあのような生き方を誰でもができたかというとそれは殆どないと思うのですが、「高等遊民」なる者がおりました。まさに賢治はそれだと思います。
そして父の政次郎がそれを許したからこそ、創作活動の面においては賢治の天賦の才が遺憾なく発揮されて数多の素晴らしい作品が生み出された。そしてそれと表裏一体で、社会人としては賢治は不適格者であった。この総体が高等遊民賢治であり、現象的には「不羈奔放」な賢治であった、と捉えてみました。
鈴木 守
話がアチコチ右往左往しておりまして失敬しております。要は、小生が入れ込んでいる〈不羈奔放〉の四文字は、広辞苑などの一般辞書が謂う意味というよりは、小森陽一氏が、その『漱石を読みなおす』(1995)の最終章に置いた「『私の個人主義』の思想」に書いている、「送籍者漱石の個人主義(自己本位)とは利己主義(エゴイズム)でもなければ自己中心主義(エゴティスム)でもなく、ましてや幼児的自己中心性(エゴセントリズム)でもありません。」と書いている読みに深いを覚えてのことなのです。
漱石が学習院大で『私の個人主義』を講演したのは、大正二年の政変の後、吉野作造らによる大正デモクラシーの胎動が始まった大正三年のことです。で、この頃の漱石は〈則天去私〉という四文字を揮毫し床の間に掲示していたことが知られています。
ということは、漱石の心も裡では、〈居士慍主義個人主義(インディヴィデュリズムリズム)〉〈自己本位則天去私の三つの四文字語が内蔵する意味作用(シニフィエ)〉はお互いに協和協働的で、相互矛盾してはいなかったと推論できるのではないでしょうか。
固より、左様な語用(言語ゲーム)は世情一般の語用とは矛盾しています。ところで、「漱石は送籍者(徴兵忌避者)だった」という見解は、昭和30年代に丸谷才一氏によって提起され、小森氏などにかなり実証的に論究されたのですが、『漱石とその時代』全五巻というライフわくワークを持つ江藤淳氏の自死間際の論述は「『私の個人主義』は重篤な胃病の所産で思想などと言えるものではない。」というものでした。その頃の、小生の盛四同僚にもゴロゴロいた所謂〈自由主義史観〉論者達の主張は「大江健三郎ら九条の会の連中は国賊の非国民だ!」といった塩梅の主張を行っていました。 『漱石を読みなおす』の後書きで、小森氏は今後の私の道は〈漱石を生きなおす〉ことです」と書いていましたが、その実践が「九条の会事務局長を引き受ける」ということであり、『最新宮沢賢治講義』を書くことであり、大正デモクラットの吉野作造の再検証や幣原喜重郎の軍縮努力や敗戦処理などの紹介活動でした。 で、1990年代の時勢と2015年以後の時流とを比べた時、〈流石送籍者漱石派〉の立処から観た「暗澹たり心地」は、「イズクンゾカクアルヤ如何!」、と。
「昭和19年、盛中生在勤中に召集され、いきなりバイカル湖畔に送られ、否応なくシベリア抑留を経験させられた目時隆太郎」なる国語教師がの当時の教育長だった朋友の工藤巌氏(内村鑑三が開いた無教会派基督教者。無教会派基督教教牧師でもあった南原繁の愛弟子。鈴木實らと高田博厚に『新渡戸稲造像』や『宮澤賢治像の制作を依頼。)の依頼で盛岡試行四高初代校長に。 で、あの、「吾等が郷土の先覚、新渡戸稲造と宮澤賢治の精神を現代に掘り起し肖り学べ。ボーイズ アンド ガールズ ホールド ニュウ アムビション。」という志向高建学の精神が。実は、守先生にもお読み戴いた『志高創立三十周年記念誌』の編纂は、高文連事務局長も務めていた目時氏の次男松岡隆之と二人三脚で進めたのでした。 そして、折しも、盛四着任一年後に逝った吾父が、岩手師範学校美術選科在学時に松本竣介も賛助出品していた洋画研究会〈白楊会〉のメンバーだったことを、岩手県議会初日の故と一旦は断られた心友の佐藤啓二の弔辞で始めて知らされたのでした。 小生が十五歳の時に邂逅した松本竣介が昭和十六年四月に発表した『生きている画家』と題する非戦リベラルエッセーと、竣介が昭和十一年十月に、野村胡堂の資金援助と原圭一郎(原敬の嫡養子)の原稿収集支援によって発刊を始めた〈雑記帳〉の創刊号扉に賢治の『朝に就いての童話的構図』を選んだ竣介の〈賢治テクスト読み〉への念いなどが一気に押し寄せて来たのでした。 賢治が昭和二年に、盛中生校友会雑誌第三十八号に寄せる企図で書いた『1927年時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』や『県技師の雲に関するステートメント』あるいは『藤根禁酒会へ贈る』などなどに色濃く埋め込まれている賢治の「イカリのニガサまた青さ」という〈青い照明〉が、「銀のモナド」とか「ドロの木(白楊)の下から」といった「レトリックのシグナルとシグナレス」として。因みに、小生は〈シグナル〉を〈記号表現(シニフィアン)〉と、〈シグナレス〉を〈記号内容(シニフィエ)〉と読んだのですが、〈赤い苹果のシグナレスさん〉には全くつうじませんでした。
とまた長くなってしまいましたが、肝心の要諦には未だ遠いままです。また、あす以降。
2016,2,,29 0:31 文遊理道樂遊民洞の道く
暫く 「シランス プリ」(お静かに…シランソブリではありませぬ)を決め込んでおりました。というのも、「〈不羈奔放、自主独往〉の行く方」を見守っていたかったからです。
というのは、小生は、「自己本位あるいは自分本位」なる、「賢治流不羈奔放なる幸福観」を、「流石送籍者漱石流なる〈自己本位〉」つまり「〈則天去私〉流なる〈私の個人主義〉」と因縁関係付けて遊戯遊楽(ゆげゆらく)を続けて来たものですから。 尚、遊戯遊楽と書いて〈ゆうぎゆうらく〉とではなく〈ゆげゆらく〉と音読する道取法は、老荘流逍遥遊あるいは禅仏教流遊戯三昧(ゆげざんまい)の「他人本位な人真似」による語用(言語ゲーム)です。 というのも、小生は、「賢治は、漱石の『吾輩は猫である』を、秋皎内田直の俳句作品も寄稿されている雑誌『ホトトギス』のバックナンバー上で読んでいたのではないか?「」という妄想的仮説を立てて遊んで来たものですから。 ここで要諦つまり「要トシテノ明ラメ」となる白堊校関係の人間関係性は、「秋皎内田直と石川啄木との間柄」、「内田秋皎と原抱琴と鈴木卓苗との間柄」、「内田直と長岡擴と小野清一郎との間柄」そして「内田と橘川眞一郎との関係性」、「原抱琴と夏目漱石と石川啄木との間の因縁」などなどです。寡聞、管見にして、小生は斯様な人間関係性についての着眼や言及言詮が存在するかは不知不識のままです。
で、「賢治と橘川との間の関係」は、「橘川は、賢治盛中五年次の担任で、その同級生には、金田一他人や蝦蟇仙こと阿部孝がいた。」となります。橘川は、啄木五年時の明治36年から白堊校国語漢文教師で金田一京助らが発刊した盛岡中学校校友会雑誌発行責任者である雑誌部長を十年間務め、明治45年に英語教師として盛中に着任した内田にその任を譲り、その後も10年以上盛中に在勤し、昭和2年の逝去葬儀ジには盛中生が数多く参席したとされています。 因みに、若くして結核に罹患した内田は、盛中に八年間在籍し、明治四十年三月に卒業、東京がお国語外国語学校に進学。明治39年度の校友会雑誌生徒理事の内田が一歳上の啄木に書かせたのが『林中書』。内田の後任生徒理事が校友会雑誌に掲載したのが啄木の『一握の砂』(公刊は賢治が盛中に入学したM42)。 で、小野は明治35年4月盛中入学だが、その年に盛中で講演した島時地大等に私淑、主席で一高入学を果たした明治41年から、大等に盛岡願教寺での夏季仏教講習会の開催を依頼。その講習会のアタマは、原始仏教やインド哲学も修めた大等の専門とした『大乗起信論』。賢治が学習した仏教思想が木村泰賢(平舘出身・禅師・帝大教授)や島時黙雷、大等のそれを土台としていたと想定できるなら、…。 もとより、通説は、「賢治は田中智学流国粋的日蓮主義の狂信者「」といったあたりでセウかしらん。だとすれば、「賢治の思想はリベラル寛容性とは真逆なトータリタリアリズム的なオーソリタリアニズムであった。」ということで、田中智学や北一輝や石原莞爾などに親和的で、リベラル平和主義者なる夏目漱石、新渡戸稲造、内村鑑三、斉藤宗次郎、吉野作造、白樺派などとは対立的ということになるリクツ。 因みに、白堊校校訓の「忠実自彊・質実剛健」は、日露戦争後の保守反動化を受けた〈戊辰詔書〉を受けたもので、リベラル過ぎてM40年に9白堊校を追われた前庭仲尾の後任江崎誠がM41年に制定。〈軍艦マーチ校歌〉制定も同時。 M41から大正8年、原敬によって全国校長会長を務めていたリベラリスト春日重泰が着任するまでの白堊校は鯤サーヴァ保守ティ―ヴな時代。で、春日校長の排斥運動が始まったのが、竣介と保武が入学した大正15年頃から。 で、賢治が『1927年時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』 を書いていた昭和2年12月、春日への佐賀中学校への転勤命令が。平井直衛、太田達人(『硝子戸の中。9・10』)、瀬川吾朗(後、釜石石応寺住職、釜石夜間中学継承者。鈴木卓苗の甥)席応時石席応時瀬古応時)らリベラル派教員の盛中での居場所は、……。で、「昭和三年の岩手の赤狩り」、が。 今は、ここまで。一寸出かけなければばらないので、推敲はせずに失礼します。
2016,2,28 16:40