みちのくの山野草

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「エスペラント学習会」を開いた賢治?

2019-02-04 12:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 さらに、名須川はこんなことも述べていた。
 昭和四年頃には佐々木喜善とともに、プロレタリア文学・美術愛好家グループ・社会運動関係者等とエスペラント学習会を開いている(「伊藤秀治手帳メモ」)。厳しい警戒の中で密かに実施されたものと思われるこのような活動は、なおこれからも調べる必要があろう。………④
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)504p~〉
 しかし、ここでも疑問が湧いてくる。この表現からは、まるで賢治がこの「エスペラント学習会」の主宰者の中の一人だったと受け止められるからだ。そして名須川がこのように認識したのは、「伊藤秀治手帳メモ」に依ってであったということが窺われるのだがそれはそれとして、名須川は果たして裏付けを取っていたのだろうか、と。

 そこで思い出すのが、周知のように、昭和5年4月に佐々木喜善は花巻で「エスペラント講習会」を開いていた(『新校本年譜』)ということだ。そしてこの際に喜善は豊沢町の生家に賢治を訪ね、初めて二人は対面したのだそうだ。

 それから、以前に一度投稿したことがあるのだが、喜善は昭和7年にも花巻と黒澤尻で「エスペラント講習会(学習会)」をそれぞれ4月と5月に開いているという。
 まずは、〝2975 賢治、喜善、中館武左衛門(#2) 〟において、
三 晩年の宮沢賢治と佐々木喜善
 しかし、喜善と賢治の関係が再び見えてくるのは、昭和七年(一九三二)、仙台で暮らすようになった喜善が花巻でエスペラントの講習会を開くことになり、その折に賢治を訪ねるようになってからです。講習会は二度開かれていて、第一回は四月一二日から一九日まで、第二回は五月二〇日から二八日まででした。この時の様子は、喜善の日記に詳しく書かれています。
<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)12pより>
ということを投稿した。
 そこで、この年の第一回の講習会(学習会)についだが、佐々木喜善の昭和7年の日記には、
  四月十二日 雨 
 花巻にエスペラント講習会があるので朝十時の汽車に乗る。出ようとしていたら柴田町の某といふ人が来て民間伝承を一冊売る。汽車で雨中さびし。大和さんに着く、二時半頃、夜雨中、明治屋<*1>といふところに行つて講習を始める。十六、七人である。発音についても質も生意気が一人ある。邪魔になつてし様がなし。どこにもあるものである。十一時に寝る。
 妻に安着の知らせ出す。
  四月十三日 風
 午前中、中舘に行く。午後宮沢賢治氏の病室へ行つて三、四時間話す。夜食は中舘さんによばれる。講習所で十一時半頃まで話してかへる。日詰の佐藤春文さんの妻君に会ふ。よほど慣れて来た。
 講習会をやつていると盛にラッパや軍歌がきこえた。こんやいたちぺい稲荷さんが満州より帰らへるといふのである。今夜此処で二ヶ所の神様がかへられるさうである。
  四月十四日 晴
 午前中、中舘からむかへが来たので行つて見る。二、三時間聞いて□□の神々の戦地へ御立ちになることなど聞く。息子さんが東京から帰つて来て、今夜十二時過ぎまで話しこんでかへる。
 妻に葉書を出す。岡村君から手紙来る。
  四月十五日 大雨  
 とてもの雨だつた。夜一時頃まで話した。いろいろな話があつた。帰へり寝たのは二時であつた。これではとても体がたまらぬと思つた。武藤君から葉書が来ていた。
  四月十六日 雨
 朝、中舘へ行つて主人と話をしているうちに雨が降り出し、傘をかりて来た。其足で宮沢君のところへ行つて夕方まで話した。それからまた夜は雨に降られて帰つた。宮沢君のところではいろいろのものを作つて御馳走になつた。
  四月十七日 雨
 やつぱり雨である。今日も講習会後いろいろな話をして一時頃になつた。今日は大和さんの家の月並祭であつて五十銭玉串を上げた。
  四月十八日 雨
 朝の中は天気がよかつたので、また今日きりなので、朝に大和さんに案内されて鱒沢君のところへ行き、その足で島君のところへ行き、それから宮沢君へ行き、詩集を買ったり、おひるを御馳走になつたり、帰ると明治屋から御馳走によばれてゐたので六時頃行き、隣家の呉服屋の主人と二、三人でごちそうになり、今日だけの講習なので、皆あとに残つて話をし十二時頃かへつた。夜雨模様であつた。
  四月十九日 雨
 夜中からまた大雨、十時半で立とうとしていると、明治屋さんが来て、照井さんと来て御土産やら謝礼やら十二円貰つた。そこに島君と杉村君が来て話がはづみ、遂に一時半まで伸びた。自動車で停車場まで送られたが発車間際にかけこんでやつと間に合つた。…
<『佐々木喜善全集 Ⅳ』(遠野市博物館)546p~>
というようなことが書かれてある。
 そして第二回の同講習会(学習会)についてだが、〝2980 賢治、喜善、中館武左衛門(#3) 〟で投稿したように、佐々木喜善の昭和7年の日記には、
  五月二十日 晴
 二時半に田中さんと共に花巻に立つ。大和さんに落着く。夜の森さんの座談会に呼ぶために島君と明治屋へ行く。明治屋で夕食をすまし、一時半まで話して雨中明治屋へ行つてとまる。此の人たちはとても親切である。
  五月二十一日 晴
 森さんの話で、菊池盛一郎氏から推薦で支部を設くるのであるが、永作に金がなく参綾出来ぬことで田中さんが出してくれるといふのである。
 光広も本部へやりたいと思ふことを森さんが受け合ふ、考へてよいことである。
 鈴木良ちやんに逢ふ。なかなかの盛会であった。
 夜、座談会に島君と明治屋が来た。
  五月二十二日 晴
 朝明治屋と話し、午前十時頃宮沢君のところへ行く。同君とてもよくなつてゐる。長い時間話し昼食を御馳走になる。それから大和さんにかへり話し、四時十五分に立つ。停車場で桜井村長と阿部力太郎君に会ふ。
 夜エスペラントの講習会を倶楽部に開く。十四、五人であり、花巻とは比較にならぬほどおとなしかつた。いい気持であつた。寝たのが十二時頃、永作と妻に手紙を出した。
  五月二十三日 晴
 体を健康にするためにいろいろな運動をはじめた。ややよいやうである。ただ灸を焼いたために水ぶくれが出来ていたくて閉口である。
 夜の講義は初日より油がのらなかつた。
  五月二十四日 晴
 今夜でエスペラント講習会が了つた。改めて黒沢尻エスペラント研究会をつくり、茶話会を催した。散会したのは十一時半頃で雑談した講習生が三人ばかりついて来て話をした。
 隣家の長谷川さんといふ未亡人の家の月並祭なので行つて天津祝詞を奏上した。玉串料二十銭献上した。
  五月二十五日 晴
 午後二時黒沢尻を発つて花巻へ向つた。宿の石川さんと一緒であつた。停車場で石川の金ちやんが三円のつつみをよこしたのでありがたく頂戴した。
 花巻に着いてから宮沢君に行つて話をした。仏教の奥義をきいて来る。夜三人の講習生のために三時間ばかりやつた。
 五月二十六日 晴
 中館さんのところへ行つて見る。宮沢君のところに行かうと思つたが止した。講習生の別の一人が来た。心持ちよく稽古が出来た。
 照井君のところに6号金ペン、パイロツトをあづかつて来る。
  五月二十七日 晴
 風吹き、宮沢さんに行き六時間ばかり居る。夕方かへる。今夜の講習で今度は終わるのである。十二時半まで話す。
  五月二十八日 晴
 八時五十分で花巻を立ち仙台へかへる。大和さんと一緒である。…(略)…
<『佐々木喜善全集 Ⅳ』(遠野市博物館)550p~>
というようなことが書かれてある。

 よってまず言えることは、たしかに喜善は「エスペラント講習会(学習会)」を花巻で開いていたと言えるはずだが、この「講習会(学習会)」は昭和5年の4月と昭和7年(4月と5月)であり、昭和4年のものではない。
 また、以上の事柄による限り、賢治がこの「エスペラント学習会」の主宰者の中の一人だったとは言えないだろう。そのことを裏付ける記述どころか、それを示唆することさえも喜善は日記に書いていないからである。
 しかも、「プロレタリア文学・美術愛好家グループ・社会運動関係者等とエスペラント学習会を開いている(「伊藤秀治手帳メモ」)」とあるが、「「プロレタリア文学・美術愛好家グループ・社会運動関係者等とエスペラント学習会を開いている」という、伊藤秀治以外の証言等を私は見つけられなかった。
 なお、「厳しい警戒の中で密かに実施されたものと思われるこのような活動は」とあるが、それを示唆するような証言等も見つけられなかった。いみじくも、名須川が「ものと思われる」と表現するとおり、これはあくまでも推測であり、「なおこれからも調べる必要があろう」ということであり、上掲の〝④〟は確たるものは殆どないようだ。

 そこで私は、名須川ははたして「四 むすびにかえて」において実証的な研究姿勢を持ち続けていたのだろうか、と訝らざるを得なくなってきた。

<*1:註> 「明治屋」とは関登久也の店のことであり、このことに関して彼は、
    早池峰山と佐々木喜善
 去年の春エスペラントの講習会を拙宅で開いたが、その時の講師は佐々木喜善氏であつた。私は知人から慫慂されて講習会を開くことにしたのだが、迂闊にも講師の氏名を聞かずにゐて間際になつて、喜善氏だと知つた時には少なからず不思議な思ひをした。といふのはかれこれ廿年も前に、當時上閉伊郡土淵村に居住の氏に對して、少年の私がかなり長い手紙を書いたことを覺えてゐる。勿論エスペラントに就いて問合せの手紙なのだが、その手紙の相手の喜善氏が偶然にも今拙宅で開催されやうとしてゐる、エスペラントの講習に、しかも講師として來られるといふことは、これはかなり奇異な因縁でさへある。
 尤もその廿年の間、喜善氏とは面語こそしないが、何かと交渉はあつた。然しエスペラントの喜善氏などは遠の昔に忘却してゐたのである。「講師は喜善さんですよ」と、仲介者のKに言はれても、それは少し變だが間違ひはないのかと、昔のことは忘れてさう思つた程である。成程民族學と喜善氏とを結びつけて考へることは、これはひとつの常識でさへあるが、エスペラントの講師とは思ひもよらぬことであつた。
 …(投稿者略)…
 九月廿一日には宮澤賢治氏を失くし、その廿九日には喜善氏を失ひ吾らの郷土は轉た寂寥にたへない。喜善氏が來花すると必ず宮澤さんを訪ねた。そして喜善氏の信仰する大本教が宮澤さんに依つて時に痛烈に批判されても喜善氏は宮澤さんにはかなはない、といつて頭をかいてゐるのであつた。
 「豪いですね、あの人は豪いですね、全く豪いですね」と、喜善氏は言つてひとりで嬉しがつてゐた。時にはおかげ話はいゝですよ、と言つて相好をくづしてゐた。喜善氏は大本の神様を深く信じてゐたのである。
            <『北国小国』(関登久也著、十字屋書店、昭和16)264p~>
と述べていた。どうやら、「私は知人から慫慂され」という「私は知人」も、「仲介者のK」も共に宮澤賢治のことであった、という蓋然性がかなり高そうだ。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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