みちのくの山野草

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伊藤ちゑが勤務した『二葉保育園』とは

2019-02-04 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

 そういえば伊藤ちゑが勤めていたという保育園に関しては、私は今まで何ら知ろうともせずにやり過ごしてきたなと反省したところであったが、たまたま、萩原昌好氏が前掲書の中で次のようなことを述べていることを知ることができた。
 チヱは、地元で育った後、大正一三年から同一五年まで二葉保育園(もと二葉幼稚園)に保母として勤務していた。これは、『光りほのかなれども――二葉保育園と徳永恕(ゆき)』(上笙一郞・山崎朋子著・朝日新聞社)によれば「セツルメント」の祖と言って良いもので貧民街の保育・教育が目的の園であった。但し『二葉保育園八十五年史』(昭60・1)によると、政府の援助金、や宮内庁からの御下賜金などもあって、所謂一般的なセツルメントとは言えない。そこに大正一五年まで勤めていたとあるのは、兄七雄の看病の為、休職したのである。というのは同『八十年史』には昭和三年~四年の在職期間が記されており、七雄氏の御子息の記憶によると、昭和一一年以後も勤めていたという。…(投稿者略)…つまり、二葉保育園に七雄氏の死後再び戻っていたようである。
              <『宮沢賢治「修羅」への旅』314p~より>
 そこで、この保育園と思われる『二葉保育園』をインターネットで探して電話をしてみた。そして、『貴園は『八十年史』をご出版なさっておられるということですがお譲り願えないでしょうか』とお願いした。ちゑがそこに確かに勤務していたということを確認したかったからだ。すると、それはございませんが『八十五年史』ならばございますということだったので、それをお譲りいただいた。
 その『二葉保育園八十五年史』(社会福祉法人 二葉保育園、昭和60年)を見てみると、同書所収の「同労者職員名簿」の8頁には
   同労者職員名簿
*二葉への参加年月及び退職年月は一部資料不足で間違いもあると思われますがご了承下さい。
    氏  名  在職期間
    伊藤ちゑ 〃13・9~15
             昭和3~4
とあった。つまり、ちゑはこの保育園に大正13年9月~15年及び昭和3年~4年の間勤めたいたことが確認できた。なお、この期間以外にも同園に勤務していたらしいが、取りあえずこの保育園に勤めていたことだけはこれではっきりした。また、今まではちゑの勤めていた保育園の名が『二葉』なのか『双葉』なのかさえも私は判らずにいたが、これでその確定もできた。
 そしてついこれまでは、ちゑは保育園の保母をしていた程度の認識しかなかった私であったが、まずは、この『二葉保育園』はとても素晴らしい理念の下に運営されている保育園であるということを知った。それは、『八十五年史』のみならず『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によっても知ることができた。ここでは、後者を基にして同園のことを少し概観してみたい。
『二葉幼稚園』は、明治33年(1900年)に野口幽香と森島美根によって麹町区下六番町(現千代田区六番町)に家を借りて16名の園児を受け入れて創設されたという。そして明治39年には四谷鮫河橋(東京三大貧民窟の随一)に移転し、スラム街の子女の慈善保育活動に取り組んだ。(38p,121p等より)
 その創設者の一人野口がその頃の心境を
 森島さんと私は、麹町の近くに住んで、いつも二人で永田町にあった華族女学校の幼稚園に通ってをりました。その途中、麹町六丁目のところを通りますと、往来で子供が地面に字を書いたり、駄菓子を食べたりして遊んでいる姿を、よく見ました。幼稚園の帰りに、夕方そこを通っても、やはり、往来で遊んでゐます。一方では、蝶よ花よと大切に育てられてゐる貴族の子弟があるのに、一方では、かうして道端に棄てられてゐる子供があるかと思ふと、そのまま見過ごせないやうな気がしてきました。(38pより)
と述懐しているということだから、その創設理由がこのことからほぼ窺えるだろう。
 そして、創設者野口と森島の後継者となったのが、後に野口が「二葉を担ふ大黒柱」と呼ぶに至った徳永恕(ゆき)であったという。この徳永について、同書の著者は、
 世の常識が女性の幸福と見なしている結婚もせず、生活的な安楽も追わず、加えて栄誉にも恬淡として八十年人生を社会に捧げ尽くし、しかも『聖書』が「マタイ伝」第五章(ママ)において教えるとおり「右の手のしたることを左の手に知らせなかった」彼女を、心底より立派な女性であったと思う。(34pより)
と評している。またその後、同園には母子寮も併設され、
 恕のつくったこの二葉保育園の母の家は、近代日本における〈母子寮〉という社会福祉施設の嚆矢であった!(239pより)
という特筆すべき記述も見られる。
 ところが大正12年、あの関東大震災で同園の新宿旭町分園は焼失、鮫河橋の本園は倒壊と火災をまぬがれたものの大破損したというのにもかかわらず、
 二葉保育園は、その大破損の本園に「罹災者の収容約百名、一方谷町青年会を輔けて配給所の任に当た」り、「東京聯合婦人会の救援活動に加はり、調査、慰安、配給の事に当」り、「千駄ヶ谷東京府罹災者収容所附設託児所、新宿御苑バラック附設託児所、王子古河家臨時託児所の三カ所に保姆派遣」をしたほか、「十二年十一月、府より六十坪のバラックをうけ罹災者中の母の家と」したという。
 自分の保育園が壊滅状態であるというのに、それよりもなお惨憺たる有様の人たちの救護に全力を挙げるところがいかにも恕らしいのだが、こうしたことは決してこの折ばかりではなかった。(245p~より)
とのことである。徳永恕の面目躍如である。

 そしてなにより、このような高邁な理念を掲げる施設で当時伊藤ちゑは働いていたのであった。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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