みちのくの山野草

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聖女の如き伊藤ちゑ

2019-02-04 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

 そしてこのような大変な状況下にあった『二葉保育園』に、大正13年9月から伊藤ちゑも勤め始めたということになる。ちなみに、ちゑは明治38年3月15日生まれだということだからこの時19歳。盛岡高等女学校を卒業(大正10年)してから3年後の同園への就職となろう。ではなぜ、豊かで恵まれた家庭環境に育ったであろうちゑが関東大震災一年後の、しかも同震災で罹災してしまって園舎再建未だしの同園に敢えて就職したのだろうか。
 その時に思い出されるのが、ちゑの兄の勇気ある次のような行動である。関東大震災後直後といえば、大杉栄を始めとする無政府主義者・社会主義者や罪もない朝鮮人への凄まじい虐殺や弾圧がなされたということだが、澤村修治氏によれば、
 関東大震災のとき朝鮮人騒動のデマが飛び、朝鮮人が民衆や官憲テロの対象になったことがある。このとき七雄は、自分が経営する長白寮に居住する朝鮮人二十数名を守り抜いたといわれる。社会主義者の面目躍如である。正義感がつよく、度胸も知恵もある好漢であった。
              <『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)167p~より>
という(そういえば、伊藤七雄は当時永田秀次郎東京市長の秘書をやっていたということだから、さもありなん)。
 どうやら、伊藤七雄・ちゑ兄妹は互いに影響を及ぼし合いながら同じような考え方を持つようになっていて、共に、今現在困っている人たちのために己のことを顧みず手を差し伸べるという信念の持ち主であったようだ。
 一方、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によるのだが、同園の仕事はいわば<セツルメントハウス>のようなものであったということだし、野口も森島も徳永も皆クリスチャンだったということだから、おそらく同園はキリスト教の精神に基づいて運営されていたことが推測できる。ちなみに現在でも同園は、
 キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています。
             <『社会福祉法人 二葉保育園 リーフレット』より>
とその理念を掲げているので、先の私の推測はそれ程間違ってもいなかろう。
 さらには、萩原昌好氏によれば、『島乃新聞』(昭和5年9月26日付)の記事の中に、
あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子
とあって、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、
(前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保(ほ)母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測隠(ママ)の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。

という記事が見える。
             <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p~より>
というのである。
 つまり、大正15年の夏、伊豆大島で療養中の兄七雄の看病のためにやって来たちゑは、同島に滞在していた間は隣の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職していた期間もその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたことがこれで判る。当時の『二葉保育園』の給与は薄給(推測だが、おそらく20円前後か?)であったことは間違いないようだから、自分の身を削ってまでして特別繋がりがあったわけでもない老婆に援助をし続けるちゑの献身振りは見事であると言えよう。ここにも、ちゑのセツルメント精神が見出せる。まさに、この老婆に対するちゑの姿勢は、「右の手のしたることを左の手に知らせるな」と言えよう。
 したがってこのことと、当時スラム街の保育にひたむきに取り組んでいた『二葉保育園』へ、しかも再建未だしの同園へちゑが自ら身を投じていったのであろうことに鑑みれば、当時の実質的な同園の園長であった徳永恕の徹底振りには及ばなかったかもしれないが、ちゑは社会の底辺に置かれた子どもたちに手を差し伸べてやって彼らの力になりたいと願いながら、セツルメント活動に勤しんでいたことはもはや疑いようがない。
 仄聞するところによると、ちゑは「新しい女」であったとも言われていたようだが、それはいわゆる「モダン・ガール」というような意味でのそれではなくて、それまでの一般的な女性とは違って、積極的に社会に貢献していこうとする女性だったという意味でのそれだったのではなかろうか。どうやら、ちゑは社会的な意識が高い女性であったであろうと今までも推測していたがそれだけではなく、貧しくて恵まれない子供たちのために献身的に実践活動をしていたという、ストイックで崇高な女性であったということに気付かされる。
 なお、平成26年にちゑの生家の現当主に訊ねたところ、『ちゑはクリスチャンではなかったようです』(平成26年9月25日聞き取り)ということを私は教わったのだったが、その一方で、平成28年10月22日に同園を訪れた際に、その責任者の方が、
 基本的には当時の同園の保姆はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います。
という意味のことを語ってくれた。
 したがって、
    ちゑ=クリスチャンの女性=聖女
という等式は成り立たないかもしれないが、そのようなちゑであったということを知ってしまうと、まさに、
 ちゑは「聖女の如き人」だった。
と言えよう。

 翻ってみて、今までの賢治研究家はちゑが保育園に勤めていたことがあったということまでは言及していても、この『二葉保育園』がどのような保育園であったのかということについて詳しく、あるいは、同園の実践が如何に素晴らしいものであったのかということについて具体的に言及していた人は一人もいなかったのではなかろうか。しかしこうして同園のことを少し知っただけでも、ちゑ自身のこと、そしてちゑと賢治との間のことが、今までとは全く違った光景に見えてきて、私とすればその真相にまた一歩近づけたような気がしてくる。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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