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大弾圧後の賢治の稲作指導

2019-02-04 08:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 さてこれで、名須川の
 昭和八年二月の久之丞あての書簡のとおり、反収三石二斗以上の増収で農家生活を向上させた。…………②
という断定には、どうも説得力が欠けていると言わざるを得ないことが明らかになったが、名須川はこれに続けて、
 昭和三年の大弾圧の嵐を受難して後、賢治はその活動を特にも肥料設計指導を中心とした稲作指導に集中し、このように増収をはかった。それ以外の社会批判や運動にはできるだけ自ら抑制し活動を閉じるが如く感じられる。
              〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)504p〉
とまた似たようなことを論じていた。しかし残念ながら、この高橋久之丞の例だけを引いて、
 賢治はその活動を特にも肥料設計指導を中心とした稲作指導に集中し、このように増収をはかった。………③
という一般論のようなは断定できなかろう。それはもちろん、ただ一つの例だけを基にし一般論は導けないからである。

 そして、ここにはもう一つ問題点がある。それは、この高橋久之丞の場合、その所有している田圃の広さが「三町三反」もあることに関してである。これが、私が先に
 賢治の「肥料設計指導」を受けて、それが実践できるのは比較的に金銭の余裕のあるいわば中農以上の場合であったであろうことが論理的に導かれるのではなかろか。
と懸念した所以である。
 ちなみに、『復刻「濁酒」に関する調査(第一報)』によれば、
           「昭和八年度「耕作耕地広狭別農家の状況」
        五反未満   五反~一町   一町~二町   二町~三町   三町~五町   五町以上
 東北地方    26.6%      27.5%       27.8%         12.6%        4.7%        0.7%         
 其の他地方   35.4%      36.4%       21.1%          4.5%        1.1%        0.5%
 
             〈『宮沢賢治の農民観を知るために復刻「濁酒」に関する調査(第一報)』(センダード賢治の会)70p〉
ということであり、当時三町歩以上の田圃を所有している高橋久之丞ようなの農家は、上位約5%程度の、ほんの一握りの農家であったと言えよう。

 そもそも、『本統の賢治と本当の露』の「㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態」で、
 あるいはまた、同時代の賢治は従来の人糞尿や厩肥等が使われる施肥法に代えて、化学肥料を推奨したことにより岩手の農業の発展に頗る寄与したと私は思っていた。ところが話は逆で、賢治の稲作経験は花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではなかったのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽一三二号を推奨することだったとなるだろう。ただし同品種は金肥(化学肥料)に対応〈註八〉して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の稲作指導法だったということにならざるを得ない。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、当時農家の大半を占めていた貧しい小作農や自小作農(『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県)の297pによれば、当時小作をしていた農家の割合は岩手では6割前後もあった)にとってはもともとふさわしいものではなかった〈註九〉ということは当然の帰結である。
 ちなみに、羅須地人協会の建物の直ぐ西隣の、協会員でもあった伊藤忠一は、
 私も肥料設計をしてもらったけれども、なにせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもにはとても手が出なかった。
                    〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
と述懐している。つまり、賢治から金肥を施用すれば水稲の収量は増えると教わっても、大半の農家は金銭的な余裕がなかったので肥料が容易には買えないというのが実態だったと言えるだろう。まして、金肥を施用して多少の増収があったところで、その当時の小作料は五割強(『復刻「濁酒に関する調査(第一報」)』(センダート賢治の会)の113pによれば、普通収穫田の岩手県の小作料は大正10年の場合、54%)もあったから、小作をしている零細農家としてはそれほど意欲が湧くはずもない。それもあってか、「当時このあたりで陸羽一三二号は広く植えられた訳ではなく、物好きな人が植えたようだ」と、賢治の教え子である平來作の子息國友氏が証言していた(平成23年10月15日、平國友氏宅で聞き取り)が、宜なるかなだ。
 つまるところ、「羅須地人協会時代」に如何に賢治の熱心な指導があったとしても、陸羽一三二号を推奨する稲作指導法は、貧しかった大半の農家にとってふさわしいものではなかった。よって、賢治は化学肥料を推奨したことにより岩手の農業の発展に頗る寄与した、ということも私の誤解だったようだ。
           〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)70p~〉
と論じたように、賢治の稲作指導法は小作をしているようなもともと貧しい農家にはふさわしいものではなかった。対応できたのはほぼ、高橋久之丞のようなせいぜい中農以上であったと言わざるを得ないのである。

 したがって、この観点からいっても、上掲の名須川による〝③〟という評価は如何なものであろうか。このような表現だと、賢治は農家一般の増収をはかった、と解釈されるだろう。しかしその実態は、賢治が「肥料設計指導を中心とした稲作指導に集中し、このように増収をはかった」し、実際に増収があったと言える対象は、高橋久之丞の一例しか見つけられないからである。
 しかも、「昭和三年の大弾圧の嵐を受難して後」の賢治については〝名須川の「賢治の肥料設計指導」論に疑問〟において既に、
 肥料設計指導に没入し村をまわり、稲作の増収が何よりも今の緊急の重要な仕事と考え、農民を救うのはそれ以外にない、とした。そのような時代になってしまった。…………①
とは言えないことを私は明らかにしておいた。簡潔に言えば、その頃の賢治は残念なことに、意欲も身体も共に弱まっていた。だから、〝③〟というような活動を当時の賢治は実はもともとほぼできなかったからでもある。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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