みちのくの山野草

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『二葉保育園』の保母としてのプライド

2019-02-09 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

吉田 さて花巻に戻った賢治は実家で病に伏せながら、先にも引用したように、『雨ニモマケズ手帳』の実質的な一頁、

             <『復元版「雨ニモマケズ手帳」』(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房) より>
に「昭和六年九月廿日/再ビ/東京ニテ發熱」というように、<三回目の「家出」>のことをまず書いた。
 そしてこの手帳を書き進めていくうちに、ちゑに一方的に裏切られてしまったという屈辱感が日に日に募ってきて病臥中の賢治を苛んだ。「賢治とならば結婚してもいいとちゑの方も思っている」ものとばかりに思い込んでいた賢治だったが、実際に結婚を申し込んだところちゑからはけんもほろろに断られてしまったからだ。
 そしてとうとう、次第に溜まってきたフラストレーションがついに爆発して、10月24日に「なまなましい憤怒の文字」を連ねた詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を『雨ニモマケズ手帳』に書いてしまった。
荒木 さっきも似たようなことを言ったが、再び持ち上がったちゑとの「結婚話」が「伏線」となってこの詩を詠ましめということだな。したがって、賢治が「聖女のさましてちかづけるもの」と詠んだ女性は巷間言われている露ではもちろんなくて、誰あろうちゑのことだったと吉田は声を大にして言いたい訳だ。
吉田 そういうこと。
鈴木 実は、当時ちゑが勤めていた『二葉保育園』のことや、ちゑがそこでどのようなことをしていたのかということをある程度賢治は知っていたと思うんだな。
荒木 何だよ藪から棒に。
鈴木 実は、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によれば、同園の創設者の野口幽香と森島美根は、当時東京の三大貧民窟随一と言われていた鮫河橋に同園を開いて、寄附金を募ってそれらを元にして慈善教育事業、社会事業としての貧民子女の保育等に取り組んでいたというんだな。
 そして創設者の、野口も森島も敬虔なクリスチャンであり、ちゑが勤めていた頃の同園の実質的責任者の徳永恕はクリスチャンらしくないクリスチャンだったというんだ。ちなみに、現在でも同園は「キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています」という理念を掲げている。
 つまり当時のちゑは、スラム街の貧しい家の子どもたちのために保育実践等をしていた、いわば<セツルメントハウス>と言える『二葉保育園』に勤めていたんだ。
荒木 つい今まで、『二葉保育園』とは普通の保育園だとばかり俺は思っていたがそうではなかったんだ。同園はセツルメント活動をしてたのか。あっ、そうか。そういえば、
    そのころちゑさんは、あるセッツルメントに働いていました。母子ホームです。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)118pより>
と森が述べていたが、このことを意味してたんだ。
吉田 だからか、森は同書で、
    そしてこの少女は…(投稿者略)…兄の死んだあとは、東京の母子寮にその生活の全部、全身全霊をささげて働いた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』171pより>
とも述べている。
鈴木 そうそう、二葉保育園には母子寮があって、
    恕のつくったこの二葉保育園の母の家は、近代日本における〈母子寮〉という社会福祉施設の嚆矢であった!
ということも上笙一郎等の前掲書には述べてあったから、おそらくちゑはその頃はこの〈母子寮〉に勤めていたのだろう。
吉田 どうやら、賢治はちゑがそのような所で働いていることはある程度知っていたようだから、ちゑが「聖女のさまして」見えたということは十分にあり得る。したがって、もしそのような女性から仮に裏切られてしまったと賢治が思い詰めたとすれば、まさに
     ちゑ=聖女のさましてちかづけるもの
と言い募ってしまいたくなる、ということを鈴木は言いたかったからさっきの「藪から棒」だったのだな。
鈴木 そういうこと。ただし断っておきたいのだが、だからといってちゑが問題のある人だと言いたいわけでは毛頭ない。それどころか、ちゑは「新しい女」であったと仄聞しているがその一方で、『二葉保育園』ではスラム街の子女の保育のためのセツルメント活動に取り組んでいただけではなくて、兄の看護のために伊豆大島に居た頃はこっそりと隣の老婆を助けたり、そこを去ってからもその老婆に毎月「5円」を送金し続けたりするような女性であったという<*1>ことだから、なかなかの人だ。
荒木 そっか、ちゑが賢治と結婚しないと心に誓ったのは、この当時のちゑの生き方からすれば、「高等遊民」のような生き方をしていた賢治に惹かれることはなかったということか。確かに二人の間には雲泥の差があるもんな、その生き方に。
吉田 そうなんだ、ちゑはそういうとても素晴らしい人だったんだ。一方で、ちゑは賢治をいわば「振った」形に結果的にはなってしまったわけだから、後々いくら森が『あなたは、宮澤さんの晩年の心の中の結婚相手だつた』(『宮澤賢治と三人の女性』116p)とちゑに迫っても、ちゑは賢治と結びつけられることをひたすら拒絶したのだと解釈できるわけだ。
鈴木 なるほど、その拒絶はちゑの矜恃ゆえにだったと吉田は解釈したわけだ。確かにそう考えてみれば、ちゑの一連の言動がすんなりと納得できる。
荒木 ふむふむ、ちゑの『二葉保育園』の保母としてのプライドが賢治と結びつけられることをかたくなに拒絶させたということか。
吉田 さて、再びここに登場させたいのが例の関徳弥の『短歌日記』中の10月4日と6日の記述だ。この日記はほぼ間違いなく「昭和6年」のものだということが僕らによって確かめられたわけだが、その記述が今回の鍵をに握っていて、その流れは、
  昭和6年9月28日:賢治東京で発病し、花巻に戻って病臥。
  〔昭和6年〕10月4日:「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話
  〔昭和6年〕10月6日:「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく
  昭和6年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの
   推定同時期 :〔最も親しき友らにさへこれを秘して
  昭和6年10月24?日:〔われに衆怨ことごとくなきとき
  昭和6年11月3日:〔雨ニモマケズ
となっている。
荒木 ところで何んだ、この〔われに衆怨ことごとくなきとき〕とは? 今まで登場したことがなかったはずだが…。
吉田 すまんすまん、後で説明するからちょっと待ってくれ。とりあえず続けさせてくれ。
 すると考えられるのが、賢治が帰花したのと相前後して小笠原牧夫と結婚する決意を固めた露が、昭和6年10月4日に花巻高等女学校時代からの友人であるナヲ(関徳弥の妻)の許を訪ねてその旨を報告したということだ。
 そこへたまたまナヲの母ヤスがやって来た。賢治はヤスの甥だ。その賢治に最近結婚話のトラブルがあったということをヤスは聞き知ってはいたのだがその詳細までは承知していなかったので、そのトラブル相手ちゑのことを露であると誤解してヤスは怒り、そんなことだったら、賢治があなた(露)にやったものを一切返せと迫った。そのやりとりを見ていた徳弥は、義母の性格を知っているがゆえに「女といふものははかなきもの也」と日記に記した。
鈴木 そうか、こういう流れであれば徳弥があの日記に「母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」と書いたことも頷ける。
吉田 一方、そう言われた露は、賢治からかつて貰っていた本を持参して翌々日の6日にまた関の家にやって来て、この本を賢治に返して欲しいと、賢治の従妹でもあり露の友人でもあるナヲにお願いして帰って行った。
 以上、鈴木の好きな思考実験を僕も真似てみたが、さあどうだ。
荒木 いいんじゃねぇ、なかなか説得力がある思考実験だった。こうなると逆に、矢っ張り徳弥の『昭和五年 短歌日記』は「昭和6年」に書かれたものであるということの真実味がますます増してきた。
鈴木 しかも、徳弥のこの『短歌日記』の記述内容がなかなかうまく当て嵌まっている。
荒木 なるほどな。帰花した賢治は病に伏せながら、折角<三回目の「家出」>をしてまでちゑと結婚しようと思って上京したというのに、ちゑに一方的に裏切られてしまったと受けとめた賢治は恨みと怨念が募っていった。そこへ、もしかすると露が小笠原牧夫と来年春結婚するという噂も耳に入ったりしてさらにダメージを受けた賢治は、すっかり打ちひしがれてしまった。
 ますます募ってくる苛立ちに耐え切れず賢治は、帰花して約一ヶ月後、ちゑに対する恨みと憎しみを込めてとうとう〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んでしまった、という可能性が少なからずあるということか。
 だから、「聖女のさましてちかづくもの」は露ではなくて実はちゑである、と。確かに、露ではなくてちゑとした方がすんなりと解釈できる。となれば、もしかするとこのことは思考実験にとどまらず、実際に十分あり得たことかもな。

<*1:註> このことに関しては、萩原昌好氏が『宮沢賢治「修羅」への旅』の中で、
 ところでチヱさんには、特記事項がある。「島乃新聞」昭和五年九月二六日付の記事に

あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子

とあって、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、

 (前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測隠の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。

という記事が見える。
           <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p~より>
と述べている。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
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 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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