みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治は自分で米をつくることがなかった(検証2)

2018-10-15 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 では今回も、先の仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」の検証を引き続き行ってみたい。

 まずは、菅谷規矩雄の次の見方をお読み頂きたい。    
 宮沢がつくったのは、白菜やカブやトマトといった野菜がほとんどで、主食たりうるものといったらジャガイモくらい――いや、なにを主食とするかのもんだいと、作物の選択とがついに結び合わないのである。トウモロコシや大豆はつくったらしいが、麦のソバも播いた様子がない。
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
            <『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房)98p~>
そして私もそのとおりだと思う。
 とりわけ、この「二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかった」という事実に私は目を背けることはもう止めた。そしてまた、菅谷の「またつくろうとしていない」という指摘も見のがせない。たしかに、賢治が自分で米をつくろうとしたということを示唆する証言も客観的な資料も私には見つからないからである。したがって、これらの事実を私たちはそろそろ甘受せねばならない。それなくしては、賢治を正しく理解することが難しいであろうことは容易に察しがつくからだ。

 つまるところ、「羅須地人協会時代」の賢治は自分で米をつくることがなかったし、それ以外の時代に賢治はそんなことをしていなかったことは周知のとおりだから、賢治は自分で米をつくることが一度もなかったということになる。そしてまた、賢治の周辺で、自分で米をつくることをしなかった「百姓」は当時皆無だったということはほぼ自明だ(不在地主であれば自分で米をつくることはしなかったわけだが、そのような人は「百姓」とは言えないし、まして賢治がそのような地主になろうとしたことなどはあり得ないはずだ)。

 よって、「賢治は自分で米をつくることがなかったし、つくろうともしていない」というこの厳然たる事実もまた、この仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」を強力に裏付けてくれる。 

<*1:投稿者註> ここでいう「百姓」とは、賢治が下根子桜に住んでいた当時の人たちが日常的に使っていた意味での「百姓」のことであり、端的に言えば、当時農家の6割前後を占めていた「自小作+小作」農家の農民のことである。

 続きへ
前へ 
 ”〝「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」の検証〟の目次”のトップに戻る。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 国見山(10/13、リンドウ科競... | トップ | 国見山(10/13、サワフタギ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

「羅須地人協会時代」検証」カテゴリの最新記事