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松田甚次郎の評価(斎藤 たきち)

2019-03-08 14:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 今から約10年前の平成21年の11月、私は初めて松田甚次郎の生誕の地山形の新庄を訪れた。それはちょうど、甚次郎生誕100周年記念の年だった。ところが、その時の新庄訪問においては、その記念事業や関連事業の名残などを私は垣間見られなかった。どうやら、その事業そのものが公な形で行われたことはなかったようだ。そこで、逆にそのことを不思議に思った私は、『新庄ふるさと歴史センター』の職員の方にそのことをお尋ねしたところ、甚次郎の評価は未だ固まってはいないというような話だったから、そのせいであったのであろうかなどと訝ったのであった。

 ところで、そもそも私は何故その時新庄を訪れたのか。それは、安藤玉治の『「賢治精神」の実践』の中に、こんなことが書いてあったからだ。
   『土に叫ぶ』の評価をめぐって
 著書の出版によって一躍有名になった松田に対して、地元の一部の人の中には、松田はジャーナリズムにのった有名人となり、もはやや地域には遊離する存在となってしまった。(ママ)と批判的な人もいた。
 また松田とともに「山形賢治の会」の創立や運営をともにした同志的な人々の中にも、彼松田を、思いあがりとか、時流にのり、国策におもね虚名を流したなどという人もいた。
              <『「賢治精神」の実践』(安藤 玉治著、農文協)166p>
 しかし私は少しく松田甚次郎の『土に叫ぶ』を読んだりして、彼が「時流にのり、国策におもね虚名を流した」とまで誹られるのはアンへフェアだと直感し、かくの如き甚次郎評価の是非を判断できる一次資料が新庄ならばあるのではなかろうか、あったならばそれらを見てみたいというのがその際の新庄行きの大きな理由の一つであった。

 そこで、新庄ではまず『新庄ふるさと歴史センター』に行ってみた、そこには松田甚次郎に関する資料などの展示があるだろうと予想できたからである(前もって、新庄に『松田甚次郎記念館』などというような建物はないということはわかっていた)。すると、たしかにその建物の2階は『新庄市民俗資料館』になっていてそのフロアーに「郷土人物館」というコーナーがあり、そこに松田甚次郎に関する展示があった。ガラスケースの中には松田甚次郎の日記の展示もあって興味深かった(もちろん閲覧は出来なかった)のだが、正直言って思ったよりはその展示資料の量・内容はあまり豊富でなかった。甚次郎は戦意昂揚に協力したと見なされてあまり評価されていないせいなのだろうか。やはり、(ここ新庄においてさえも)松田甚次郎についての評価が定まっていないせいなのだろうか、と改めて感じた。
 そして、残念ながら同センターには期待していた資料は見つからなかったので、次は新庄市立図書館を訪ねてみた。その図書館は、このセンターの近くにあったからでもある。

 新庄市立図書館を訪ねてみると、松田甚次郎に関する資料が纏めて置かれているコーナーがあり、閲覧出来た。その中には見てみたかった資料等も幾つかあった。その一つは、斎藤 たきちの『賢治の心で山形の地を生きて』という随筆であった。その中には
 私は今、甚次郎の生涯の一面を振り返ってみた。それは賢治の思想を原母にして燃え尽くしたひとつの生き方だった、と言うことがいえよう。晩年、日中戦争が深まるなかで国策に協力、戦争賛美者となっていく過去を持つにしても、当時左翼の人々が相ついで転向し国全体の流れが戦争体制へのめりこんでいった時代相を考えるとき、ひとり甚次郎のみを犯罪者と呼ぶことはできない。しかし、賢治のしんの思想を引き継げなかった負の行為もそこに視る。いや、亡き賢治の思想を時代相に接続する苦闘にもまして、周囲にいた小野武夫や加藤完治の行動に影響されて賛同者のなっていたと見るべきだろう。これらの汚れた経歴を抹殺することはできないにしても、賢治と出会い、師として生涯信じつつ生を閉じたその生き方は、今なお掘り尽くせぬ鉱脈のひとつだ、というのが私の甚次郎観なのである。
           <『月刊 素晴らしい山形』1991,12号より>
ということが書いてあった。
 この文章の前半は、私も以前”戦争協力に関して”で述べたような想いと同じであったので少しほっとした。しかし、後半の特に”これらの汚れた経歴”という表現からは、そうか松田甚次郎はこのようにも見られてもいたのだいうことをやはり認識すべきなのだと思い知らされた。その一方で、”今なお掘り尽くせぬ鉱脈のひとつだ”という甚次郎に対する冷静な見方から判断して、斎藤の捉え方はほぼ妥当なのものなだろうと思えた。

 そしてその2つめが『甚次郎とその時代』という、同じく斎藤 たきちの覚書である。その中に、結城哀草果の松田甚次郎に関する次のような批判、
 「農村の或者がおもいあがって、たまたま農民道場めいたことをはじめると、世人がそれをはやしたててすぐ有名になってしまう。地元の村人は一向関心をもたず、迷惑にさえおもっているうちに、若年の道場主がどんどん名高くなって、恰も救世主のような面をして講演をして歩くようになる。ところが、かかる級の人物は世間に掃くほどおっても、農村におる者が特に目につく、鳥なき里の蝙蝠であるのと、本当に偉い農村人物を見出す目を世人が持っておらぬからである。国の宝となる農民は黙々として働き、村と国を治めてめったに声を大きくしない。三十そこそこの若年者が、生意気に農民道場主とはいったい何事ぞやと、罵りたいことが往々にしてある。かかる事業は、国か県の事業に合流して成績をあげるべき時代になった。」(昭和十四年・アララギ)
              <『地下水19号』より>
をまず載せている。思い起こせば、この結城哀草果という人物は以前の投稿”南城振興共働村塾(中編)”で登場してきた人物でる。その投稿内容に従えば、甚次郎は哀草果に対して一目置いていることが覗えるのだが、この上掲の「批判」からは、哀草果は甚次郎に対して敵愾心すら燃やし、苦々しく思っていたのだということが手にとるようにわかる(言い換えれば、彼の人間性が透けて見えてくる気がしないでもない)。
 それゆえにだろうか、斎藤 たきちは続けて次のように
 「農民道場」というテーマで右のエッセイを書いたのは、歌人の結城哀草果であった。たしかに松田の実践は、彼の独創に根ざした思考、実践の産物というよりも、当時、ジャーナリズムの寵児となった、「農民道場」運動の亜流であったように思われるフシがある。しかし何故に農民道場運動がひろがり、その門をたゝく若き農民の多くがいたかは、又別の問題でもあろう。身銭を切って入塾し、汗を流して働きながら、一片の社会的資格の証書すら与えられない場に青春の生き方をさらすことは、現実変革の意識と、未来の生活をきりひらくひとつの期待と可能性をそこに賭け、内発的な燃焼の場として位置づけたからに他ならないと思う。
 わたしはそうした意味で、哀草果の言葉に抵抗を感じる。たとえその行為が、稔り少ないものであったにしても、それに青春の情熱をかけた生きざまからわたしは学びたいと思う。
             <『地下水19号』より>
と述べ、哀草果の見方を一部認めながらも、その歴史的背景を踏まえなければならないし、迸る若者の想いと情熱を理解してやらねばならぬと哀草果を戒めているようにも思える。

 ところで、この「農民道場」という用語だが、先の〝南城振興共働村塾(中編)〟に引用した『岩手日報』報道、
 宮澤賢治の会 明日夜開く
宮澤賢治の会三月例会は廿一日(火)午後六時半から公会堂多賀で開催されるが会費は三十五銭、多数参加を希望してゐる、尚遺弟松田甚次郎氏は廿二日昼来盛、聯隊訪問の上夕六時花巻の農民道場に向ふ
にも登場しており、当時の人達は、
    「農民道場」=「南城振興共働村塾」 
と見ていたということがわかる。ということは、甚次郎が賢治の「羅須地人協会」に倣って創立した長期の村塾「最上共働村塾」も、花巻などでの短期村塾「南城振興共働村塾」も、この「農民道場運動」の一つであったということになりそうだ。  

 さらに、斎藤はこの覚書の最後の方で、
 「明治、大正を通じて教育方針を仔細に検討すれば、その重大影響に驚くであろう。東北に職を報ずる教師自身が少しく才智の優れたる者と見れば「東北を捨てて都に出でよ、東北にありては絶対に成功の機会は到来せず」と、誰憚らず教えたのである。」という教育が、一般的であった。この現実の実感は、公教育批判から不信へとつながってゆき、「村塾」や「道場」運動創出の下地となっていったことは推察される。
という見方を述べている。もしこの「少しく才智の優れたる者と見れば「東北を捨てて都に出でよ、東北にありては絶対に成功の機会は到来せず」と、誰憚らず教えたのである」が歴史的事実であったとするならば、かつて教育に携わったことがある身の私としては慚愧の念に堪えない。だから、当時の少なからぬ若者が「身銭を切ってこの村塾に入塾し、社会的資格の証書すら与えられない場に青春の生き方をさらした」という斉藤の指摘もまた正鵠を射ていると私には思えてくる。延いては、甚次郎はやはり再評価されてもいいのではなかろうかという想いに私は思いに駆られてしまう。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
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 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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