みちのくの山野草

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松田甚次郎病に臥す

2019-02-27 16:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 さて先に〝『最上共働村塾』の再開〟において、私は最後に、
    一見順風満帆に見えるのだが、恐れていたことが昭和18年に起こってしまう。
と前触れしておいたが、ここではそのことについて述べたい。

 『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)によれば、おおよそ次のようなことが起こったという。
 昭和18年の夏、最上地方はまれにみる大干魃であった。なんと例年よりも2週間も早い7月6日には梅雨が明けてしまい、その後は連日晴天の日々が続いたのだそうだ。そのため田圃にはひび割れが目立つようになり、畑は土ぼこりが舞ていったという。
 そこで、もはや神に頼るしかないと衆議が一致、松田甚次郎は同志や村民と語らって7月9日午前7時に新田橋に集合し、新田川上流の最高峰八森権現(八森山1098m)に雨乞い祈願のために登った。
【Fig.1 雨乞いに向かう松田たち】

 頂上では松田甚次郎の合図で宮城遙拝をし、皇軍の武運長久を祈願、そして雨乞い祈願をしたという。ただしそのときには甚次郎に特別変わったことはなかったようだ。
【Fig.2 八森権現での雨乞い】

 ところが、先に下山した人達が麓で休んでいても甚次郎はなかなか下りてこなかったので心配になって迎えに戻ると、甚次郎は耳が痛んで歩くことが出来ないために遅れていたことが解った。かなり疲労困憊していたようだったという。
 結局、甚次郎は家に帰ると疲労で倒れてしまい、中耳炎を再発し、新庄の楠病院に入院することになってしまったという。
              <『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)212p~>
 ということで、この雨乞いの無理が切っ掛けで甚次郎は昭和18年、病に伏すことになってしまったという。

 さて、賢治の場合は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と願ったわけだが、残念ながら、実際に「ヒデリノトキニ」そうとしたことがなかったということは、例えば、拙著『本統の賢治と本当の露』の「㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治」において明らかにしたところだ。ところが甚次郎の場合には、実際にそのようなことをしていたということがこれで明らかになった。
 今にしてみれば、「ヒデリノトキニ」「雨乞い」なんて非科学的だと嗤われるかもしれないが、それはその時に「ナミダヲナガ」すこととさほどの違いはないのだから、「サフイフモノニ/ワタシハナリタイ」と願った賢治と、実際にいわば「ナミダヲナガシ」た甚次郎との間の差は大きい、ということに私は気付く。
 もちろん、そう思うことも大事だが、そう思ったならば実際にそれを実践することの方が遥かに大事だというのが、私の場合は基準だ。だから、「昭和18年の夏、最上地方はまれにみる大干魃であった」というが、「大正15年の紫波郡地方はまれにみる大干魃であった」のだから、この時に紫波郡を慰問して子ども達に南部煎餅を上げていた山形県人の甚次郎と、そのような支援をその時に何一つしていなかった岩手県人の賢治であったことも私は知っている<*1>のでなおさらに、二人の間の差は残念で悲しいことだがあまりにも大きすぎる。

<*1:註> 大正15年12月、『岩手日報』は連日のように大干魃の惨状と義捐・救援の報道をしているのだが、その時に賢治は約1か月の上京していた。
 また帰花後も同様な新聞報道があったのだが、賢治は協会員たちと楽しい日々を過ごしていたということになる。なぜならば、羅須地人協会員の伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」において、
     その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。
         <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)>
と語り、同じく会員の高橋光一は「肥料設計と羅須地人協會」で、
 藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、神楽やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
 御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
  ダンスコ ダンスコ ダン
  ダンダンスコ ダン
  ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
              <『宮澤賢治研究』(筑摩書房)>
と羅須地人協会時代の賢治について語っているからだ。
 したがって、この頃の羅須地人協会の集まりはたしかに楽しかったにちがいない。しかし、もし賢治が貧しい農民たちのために献身しようとして羅須地人協会を設立したのであればこのような楽しい事だけではなく、為すべき喫緊の課題があったはずだが、そのようなことを為したという協会員の証言は私の知る限り何一つない。どうやら、羅須地人協会の活動は地域社会とはリンクしていなかったと言わざるを得ないし、残念ながら、賢治はこのときのヒデリに際して涙ヲナガシていなかった、と結論せざるを得ない。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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