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4 松田甚次郎の古里訪問

2024-01-26 10:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男





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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
4 松田甚次郎の古里訪問
 どうして私はふと『新庄ふるさと歴史センター』を思い出したのだろうか。それは過去に一度そこを訪れた時のあるものが私をそうさせたに違いない。
 松田甚次郎の足跡を訪ねて
 かつて松田甚次郎の古里新庄市鳥越を訪ねたことがある。それは松田甚次郎生誕百周年の2009年のことであった。昭和2年3月8日に賢治を訪ねて「小作人たれ、農村劇をやれ」と賢治から諭されて実際そのとおりに実践、いわば「賢治精神」を忠実に実践したであろう松田甚次郎のことを以前からもっと知りたいと思っていたし、節目の年だから何かしら記念行事等の催し等が行われているのではなかろうかとも思ったからである。
 初めて乗る山形新幹線、たぶん『松田甚次郎記念館』などが創られるなどという動きもあるのではなかろかと車中で勝手な想像をしながら思いに耽っていたならば、思いの外早くその終点新庄駅に着いた。何はともあれ早速鳥越にタクシーを走らせ、松田甚次郎の足跡のいくつかを辿ってみた。具体的には鳥越八幡宮、そこの境内にある土舞台、最上共働村塾跡、如法寺、隣保記念館跡地、生家、墓地等を歩き廻って当時に想いを馳せてみた。
 ところが、生誕百周年の年ではあったのだがとりたててそのようなことを記念する催しも、また記念館を建てるというような動きもともにないように感じた。そのような形跡も情報も得られなかったからである。賢治の生誕百周年の際の賑々しさに比べてこの静けさは歴史の必然なのだろうかと一抹の寂しさを感じてしまった。
 思うに、大ベストセラー松田甚次郎著『土に叫ぶ』や松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』は、それまでは地方に埋もれていた存在であった賢治の名を全国に知らしめるために多大の貢献をしたはず。なのに昨今、松田甚次郎の名は殆ど忘れ去られつつあるという寂しさを感じながら、次に訪れたのが新庄市立図書館と『新庄ふるさと歴史センター』である。
 まず先に図書館を訪れた。そこには松田甚次郎に関する資料が纏めて置かれているコーナーがあり、いくつかの資料が閲覧出来た。その中には見てみたかった資料等も幾つかあり、特に、斎藤たきちの「賢治の心で山形の地を生きて」という資料は興味深かいものであった。次に訪れた『歴史センター』は、その2階が『新庄市民俗資料館』になっていてそのフロアーに「郷土人物館」というコーナーがあり、松田甚次郎に関する展示もいくつかあった。ガラスケースの中には松田甚次郎の日誌(もちろん閲覧は出来なかった)の展示もあって興味深かったのだが、正直言って思ったよりその展示資料の量・内容ともにあまり豊富でなかった。松田甚次郎は戦意昂揚に協力したと見なされてあまり評価されていないせいなのだろうか。そのあたりのことをセンター長に訊いてみると、松田甚次郎の農村改善運動等には功罪両面がありその評価は未だ定まっていないからであろうということであった。
 これが1回目の新庄訪問であった。
 2度目の新庄訪問
 さて前述したように、大正15年12月25日はたして松田甚次郎は賢治の許を訪れていたのかいなかったのかということが分からなくなっていた時に思い出したのがこの『新庄ふるさと歴史センター』であった。それはそこに松田甚次郎の日誌が陳列されてあったということを思い出したからである。彼の日記を見ることが出来ればいずれであるかが判るではないかと。
 しかし問題はその日誌を見ることが出来るか否かだ。学者でも研究者でもない私が松田甚次郎の日誌を閲覧出来るはずはないよなと思いつつ、厚かましくも駄目元で同センターに問い合わせてみる。
「宜しければ松田甚次郎の大正15年と昭和2年の日誌を見せていただけないでしょうか」
と。するとなんと受話器から
「宜しいですよ。それではこちらにお越しになる前にその日をお知らせ下さい。準備しておきますので」
という返事が聞こえてきた。嬉しさのあまり私はあやうく「やったっ!」と叫ぶところだった。
 ということですぐさま訪ねたのが2度目の新庄訪問で、それは2月の末であった。新庄に近付くにつれて車窓からの眺めに驚きが増していった、あまりの積雪の多さに。岩手の積雪も少なくはないが、新庄の雪の多さは桁違いだった。新庄駅に下り立ってみると3月間近だというのに積雪が私の背丈よりも高かったからだ。この時期でかくの如くであるなら、真冬とか昭和初頭の頃ならばここの積雪の多さは推して知るべしだ。それだけでも松田甚次郎の実践は凄かったに違いないと直感した。松田甚次郎は農閑期の冬、農民を啓蒙する講演のために猛吹雪の中を幾度も駆けずり回ったと『土に叫ぶ』でたしか語っていたはずだからである。雪の回廊の中、そんなことを思い出しながら『新庄ふるさと歴史センター』に向かった。
 そこへ着いたのはまだ昼時だった。恐縮しながら、
「松田甚次郎の日誌を見せてもらいたくてやって参りました者です」
と受付の方に告げると、なんとわざわざセンター長が自宅から駆けつけて来て、大正15年と昭和2年の松田甚次郎の日誌を見せてくれた。いの一番に開いて見たのはもちろん大正15年12月25日の頁である。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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