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4 「年譜」から消された宮澤賢治-三カ月間の滞京-

2024-09-07 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

4 「年譜」から消された宮澤賢治-三カ月間の滞京-
 そもそも、このシリーズ『消された宮澤賢治-三カ月間の滞京-』は、『現賢治年譜』において下掲のように、

「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」の間の約三カ月間、賢治はまるで透明人間になっているので、
    空白のこの約三カ月間、賢治は一体何をやっていたのだろうか。
という疑問から始まった。そして、やっとその答が垣間見えてきたようだ。

 「仮説♣」について
 まずは、私の定立した仮説、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
については、さしたる反例も見つからず検証に耐え得ることができた。
 また、澤里武治の次の証言、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミーナ(ママ)氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 …(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
…………○澤
       <昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
もある。そして、柳原昌悦の、
       <『羅須地人協会の真実 ―賢治昭和二年の上京―』 (鈴木守著、友藍書房、平成25年)15p >
という証言もあるから、この「仮説♣」の妥当性を裏付けてくれる。よって、この「仮説♣」は今後反例が見つからない限りはという限定付の歴史的事実であり真実であり、やがて定説となってゆくであろう。

 これに伴って、「宮澤賢治年譜」の大正15年12月2日の現定説、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち澤里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。 …………❎
は破綻を来しているので即棄却されるべきものである。
 言い方を変えれば、「宮澤賢治年譜」の大正15年12月2日について言えることは、
    一二月二日(木) 上京する賢治を柳原や澤里が見送った。
ということであり、この時に賢治がチェロを持って上京したということを裏付けるものはない。そして、見送ったのは「澤里一人」であったというわけでもない、となる。

 『現賢治年譜』の長すぎる空白
 そう、垣間見えてきたのは、上掲の表の中の空白の約三カ月間、賢治は一体何をやっていたのかの答であり、「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の三カ月以上もの空白こそが、「三カ月の滞京」に当たるということだ。やはり賢治はこの期間一時透明人間になっていたわけではなく、澤里の言う通り、「先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」ということは、もはや疑いようがない。
 はしなくも、この「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の三カ月以上もの空白こそが、賢治の「三カ月間の滞京」があったことを雄弁に証明しているとも言えようか。逆の言い方をすれば、あろうことか、宮澤賢治のチェロ猛勉強の三カ月間の滞京を『現賢治年譜』から抹消してしまったと言われても致し方なかろう。『現賢治年譜』には、消されてしまった「賢治の三カ月間の滞京」が実はあったのだ。不思議なことに賢治研究者の誰一人としてそのことを論じていないようだが。

 「不都合な真実」
 それにしても筑摩書房はなぜこのようなあり得べからざることをしれっとしてしまったのだろうか。ただし振り返ってみると、その訳を教えてくれそうなことが私にはあれこれ浮かんでくる。たとえばあの三つの、
・単行本『宮澤賢治物語』において著者以外の人物による改竄が行われたという事実
・理に適わない理由をかたって『賢治随聞』が出版されたという事実
・「校本年譜」や「新校本年譜」において澤里武治の証言が恣意的に使われているという事実
などもそれだったのだと。

 さらに、この検証された「♣」は「不都合な真実」なので「宮澤賢治年譜」から抹消してしまいたいと思った一部の人達がおり、実際それが為されたのではなかろうかという虞があるということも知った。がしかし、それはおそらく私だけの危惧であり、この一部の人達の行為が実際あったはずがないという想いも私には強い。とはいえ、現実に上掲のような三つの事実が残っているということ等に鑑みればやはりそのような行為があったかもしれないという不安を私は拭い去ることもまたできない。
 では私はどうすればよいのか。それはあの「リトマス試験紙」を使ってみればよいのだ。そこで使ってみたならば、すぐその結果がすぐ分かった。そしてその結果はおぞましいものだったから。おそらく、この「リトマス試験紙」は当分私の頭の中の引き出しに仕舞ったままにしておきたい。

 澤里・柳原の苦悩について
 となれば、これらのことと私は今後どう折り合いを付ければよいのだろうかとこれから暫くは悩みが続きそうなので、次のようなことを述べてとりあえず、私の中での帳尻は合わせてみたい。

 まず、柳原は証言、
を公にすることを憚っていたに違いない。しかし、実は柳原がそのようなことを憚る必要は全くなかったのである。
 ここまでを振り返ってみれば、『宮澤賢治物語』が何者かによって改竄されたそのあおりで、当の澤里武治、そして同級生の柳原昌悦はいわれない苦悩をさせられたに違いないであろうことが私にはひしひしと感じられる。
 以前、澤里武治の実家を私が訪れた際に、長男の裕氏が見せてくださった新聞連載版『宮澤賢治物語』を貼ったスクラップブックと、単行本『宮澤賢治物語』を思い出しながら私は次のように推察する。
 賢治をひたすら崇敬している澤里武治のことだから、『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語』をスクラップブックに貼りながら、おそらく食い入るように読んでいたと思う。そしてそれが単行本『宮澤賢治物語』として出版された際には、いち早くそれを購入して恩師のことを思い出しながら読み始めたと思う。
 そして愕然としたに違いない。自分の証言が改竄されていたことに気付いたからだ。もし私が澤里ならば、この改竄はおそらく関登久也によってなされたと疑ってしまうような事態だから、澤里は知れず悩んだに違いない。
 一方で、澤里の証言が正しく使われずに定着してしまった「現定説❎」に対しては、柳原昌悦も苦悩したと思う。もし私が柳原ならば、それは澤里が嘘の証言をしているからだと恨みがましく思うような事態になったしまったからだ。
 かくのごとく、『宮澤賢治物語』を改竄した何者かのせいで不条理な苦悩を味わわされたであろう澤里であり、柳原である。そしてこの改竄行為を知り、さらには道理に合わないとしか私には思えない『賢治随聞』の出版を知って、関登久也も天国でさぞかし嘆息し、憤ったに違いない。この三人は誰一人、何一つ悪いところはないのに、理不尽な苦悩をさせられたことに私は同情を禁じ得ない。
 だからもちろん、柳原は証言「○柳」を公にすることを憚る必要は全くなかったのである。関登久也が改竄した訳でもないし、澤里武治が嘘を言っていた訳でもないからである。
 さぞかし天国の賢治は、なぜ私の愛弟子澤里や柳原、そして同信の関をこれほどまでに悩ませ苦しめたのかと、改竄等に関わった人達のことを苦々しく思い、嘆き悲しんでいると思う。

 なお、現在の「宮澤賢治年譜」と私見のそれとを比較するための【表9 現及び私見・宮澤賢治年譜の比較】を作成してみた。


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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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