みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3 松田甚次郎の桜訪問回数

2024-01-26 08:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男





 続きへ
前へ 
 “ 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』の目次(改訂版)”へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
3 松田甚次郎の桜訪問回数
 さてこうなれば、松田甚次郎が賢治の許を訪問したことは昭和2年3月8日以外にもあったのかなかったのか、あったとすればそれはいつだったのかということをまずは探る必要があると覚ったので、そのことを次に試みたい。
『宮澤賢治研究』より
 その関連で思い出すのはまず松田甚次郎著「宮澤先生と私」という次のような回想である。
 盛岡高等農林学校在学中、農村に関する書籍を随分と読破したのであるが、なかなか合点が行かなかった。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協会の事が出て居つたのを読むで訪れることになつたのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる様ななつかしい面持ちで早速二階に通された。
 明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて来る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光つて見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
 先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持参せられて、食事をすゝめられた。
 かくして私共は、慈父に久し振りで会ふた様な、恩師と相語る様にして下さつたあの抱擁力のありなさる初対面の先生にはすつかり極楽境に導かれてしまった。
 それから度々お訪ねする機を得たのであるが、先生はいつも笑つてにこにこして居られ、文化はありがたいものだ、此処に居てロシアの世界的なピアノの名曲を聴かれるとてロシアの名曲を聴かしてくだされたり、セロを御自ら奏して下さつたものである。…(略)…
 私が先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが、私が先生の教えを奉じて、最初に農民劇を演ずべくその脚本を持參して伺つたのであるが、非常に喜ばれて事細かく教示を賜り、特に篝火を加えて最高潮を明にして下さつたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書)>
 この回想を読んでみて気になったことが3点ある。その第一は、
「初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである」
の部分である。この時が松田甚次郎が賢治を下根子桜に訪ねた最初であり、その後何度か、それもしばしばそこを訪れたと受け取れる表現をしているからである。
 その第二は、
「先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが」
のところである。つまり松田甚次郎が賢治の許を訪ねた最後は昭和2年の8月であったと言っている点である。
 その第三は、
「先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて」
と述べている点である。
 そしてこの第三の証言の中の〝十一時半〟という時刻から、松田甚次郎が最初に賢治の許を訪ねた際には午前中からそこを訪れていたということになろう。すると、最初の訪問日は昭和2年の3月8日ではなさそうだ。なぜなら『土に叫ぶ』からは、千葉恭は3月8日の午前中は赤石村を慰問して午後に下根子桜を訪れたと読み取れるので、同日の午前中にはまだ甚次郎は花巻に着いていなかったことになるからである。
『宮澤賢治』(佐藤隆房著)より
 さて、では千葉恭が賢治を下根子桜に最初に訪れたのはいつだったのであろうか。そこで次に思い出したのが『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)である。その中には「八二 師とその弟子」という節があり、次のようなことがあたかもその光景を見ているかのように綴られている。
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年版)>
 「やった!これで分かったぞその日が」と私はほくそ笑んだ。松田甚次郎が初めて賢治を下根子桜に訪れた日は大正15年12月25日だったんだ。
 しかしその喜びも束の間、待てよ何かおかしいぞという気がしてきた。たしかその頃賢治は滞京中ではなかったのか、花巻には居なかったのではないかと。
 ならばその頃の賢治の行動を「新校本年譜」で確認してみよう。12月中に関しては次のような内容になっていた。
 12月1日 定期の集りが開催されたと見られる。
 12月2日 花巻駅より、澤里武治と柳原昌悦<*>に見送られながらセロを持って上京。
 12月3日 着京し神田錦町上州屋に下宿。
 12月12日 東京国際倶楽部の集会出席等。
 12月15日 政次郎に書簡にて「二百円」の送金を依頼。
12月20日    〃    重ねて「二百円」の送金を依頼。
12月23日    〃    29日に帰郷すると知らす。
<『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)』(筑摩書房)>
ここには12月29日に帰郷したとはっきりは書いていないが、それまでは滞京中であると思われる。恐れていたとおりだ。はたして、事実はどっちだったんだろうか…。参ったな、どうすればいいのだろう。途方にくれそうになった時にふと思い出したのが『新庄ふるさと歴史センター』であった。
<*> このことに関しては前述したことがあるように
「澤里武治一人に見送られながら花巻駅から7度目の上京をした」
とばかり思っていたが、その後あるとき、実証的宮澤賢治研究家のC氏から
「そのとき花巻駅に見送りに行ったのは澤里武治だけでなく柳原昌悦も行っていたのです」
と教えてもらった。というのは、かつてC氏が柳原昌悦本人から直接取材した際に、柳原は
「一般には一人ということになっているが、俺も澤里さんと一緒に行ったのです」
と証言していた、とC氏は私に語ってくれたのである。何にも書かれていていないことだけれども、と。となればもしかすると、賢治が「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」と語ったことを柳原も聞いていたかもしれない。
******************************************************* 以上 *********************************************************
 続きへ
前へ 
 “ 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』の目次(改訂版)”へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2 昭和2年3月8日の桜訪問 | トップ | 4 松田甚次郎の古里訪問 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治と一緒に暮らした男」カテゴリの最新記事