みちのくの山野草

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5 『松田甚次郎日記』より

2024-01-26 12:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男









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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
5 『松田甚次郎日記』より
 幸いにも見ることが出来た松田甚次郎の二冊の日誌。それらはいままで私が抱えていた2つの懸案事項を一気に解決させてくれた。
 大正15年12月25日の日記
 その一つは、松田甚次郎の大正15年12月25日の日記には次のようなことなどが書かれていたからである。
    …
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
  人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
  明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ
  快晴  赤石村行 大行天皇崩御
<『大正15年 松田甚次郎日記』>
 したがってこの日記に従うならば、松田甚次郎はこの日(12月25日)は花巻にではなくて日詰に行き、大旱魃によって飢饉一歩手前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。南部せんべいを一杯買ひ込んで国道を南下しながらそれを子供等に配って歩いたのだろう。そして、盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛かったというようなことも記している。したがって慰問後は直接盛岡に帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしていた訳ではない。因みにこの日に購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことも確認出来た。その日記帳には金銭出納も事細かに書かれていたからである。
 というわけで、一般には他人の著書よりは本人がしたためた日記の中味の方が遥かに信憑性が高いだろうから、松田甚次郎本人のこの日の日記から
〝松田甚次郎の赤石村慰問は一般に3月8日の午前と思われているようだが慰問したのは大正15年12月25日であるし、この12月25日に甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねてはいない。〟
と結論していいであろう。つまり
(ア)松田甚次郎は大正15年12月25日に下根子桜を訪れていない。佐藤隆房著『宮澤賢治』には同日そこを訪れたと書いてあるが、それはフィクションである。
(イ)松田甚次郎は大正15年12月25日に赤石村を訪れて慰問しているが、自身の著書『土に叫ぶ』では昭和2年3月8日に赤石村を訪れたかのように受け止められるような書き方をしている。しかしそれはこの日のことの記憶違いであろう。
ということではなかろうか。
 やった!これで今までのもやもやの一つが霽れた、と私は心の内で抃舞した。新庄は遠かったけれど真実には近づけた。心から『新庄ふるさと歴史センター』とセンター長に感謝した。
 それにしても佐藤隆房は大正15年12月25日に松田甚次郎は下根子を訪れたと、それも恰も見ているかの如くその様を生き生きと「書いた」のはなぜなのだろうか。明らかな虚偽がそこにはあるが、さりとて全く無関係な日かというとそうでもなく、大正15年12月25日は旱魃で困窮しているであろうことに心を痛めて松田甚次郎が赤石村を慰問した日ではある。しかし『土に叫ぶ』など一連の松田甚次郎の著書を読んでもそれらからは慰問した日が「大正15年12月25日」であるということを知る由はないはず。なのに、わざわざこの日「大正15年12月25日」を松田甚次郎が初めて下根子桜に賢治を訪問した日として佐藤隆房は「特定」してでっち上げたのか、その偶然性が気になる。
 また松田甚次郎自身も、どうして『土に叫ぶ』で
「或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
と、自身の日記とは矛盾するような書き方をしたのであろうか。もしかすると松田甚次郎の場合は当日12月25日は大正天皇が亡くなった日だからそのことに遠慮をして書き換えたのだろうか。
 いずれこれらのことに鑑みて言えることは、活字をそのまま事実であると鵜呑みにしてはいけない、検証せねばならぬということなのだろう。私はつい、出版されているものを読むとそれが真実であると受け止めがちな傾向がある。しかし以前述べた宮澤賢治研究家E氏の〝千葉恭は盛町出身〟といい、今度の佐藤隆房の〝大正15年12月25日〟の件といい、この松田甚次郎の〝昭和2年3月8日〟の件といい、活字になってはいたがいずれも真実そのものではなかった。真実を掴むためにはやはり検証が必要だし、大切なのだということをいまさらながらに思い知らされたのである。
 とはいえ、やっとこれで一つの懸案事項は解決出来てそれまでの大きな胸のつかえがおりた。ただし松田甚次郎のこれらの日誌を元にして確認しなければならないことがもう一つある。それがその時新庄を訪ねた最大の目的であったゆえに。
 二つ目の懸案事項
 さてこの時の新庄行の最大の目的は次のようなもう一つの懸案事項を解決することであった。それはいままでずっと解明出来ずにいた、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日を解明することであった。もっと正確にいうと松田甚次郎が盛岡高等農林入学後、甚次郎が下根子桜に初めて賢治を訪ねたのはいつで、その後いつ何回ほどそこを訪ねていたのかを知ることが最大の目的であった。
 そこで、『新庄ふるさと歴史センター』で見せてもらった大正15年及び昭和2年の松田甚次郎の日誌を、前者については3月末から、後者については8月末までしらみつぶしに調べてみた。それも単に日記だけでなくてその日誌に付いていた現金出納帳も目を皿にして付き合わせてみた上でである。その結果分かったことは
〝松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたと記してあった日は昭和2年3月8日と同年8月8日の両日だけであった。〟
ということであった。
そしてこの両日の日記の中味はそれぞれ次のようなものであった。

 昭和2年3月8日の日記
 昭和2年3月8日、つまり初めて松田甚次郎が賢治の許を訪れた日の日記には
 忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ
 reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   unpple
 2.30. for morioka 運送店
stobu 定盛先生行
 nignt 斎藤君
 今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の
 誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ.
 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
 吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ盡力スル
 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
 おゝお郷里の方々!地学会、農藝会
 此の中心ニ吾々のなすヲ見よ.
 現代の農村生活ヲ活カスノダ
 晴 関西大地震 花巻行
と記されていた。

 昭和2年8月8日の日記
 一方2度目で、それが最後の訪問になった昭和2年8月8日の日記は
  …
 農村青年ノ今後 彼モ力ナル
 ベキヲ与フレバマタ現在モ?大シ
 メルノミナレバトテカヤ
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ!
 花巻宮沢先生へ  歸宅
というものであった。
 甚次郎が賢治を訪ねた日の確定
 いよいよ結論へと進もう。『松田甚次郎日記』に書かれていることに基づけば
☆松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない。
またこのことと、松田甚次郎は昭和2年に高等農林を卒業しているということから
☆松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に下根子桜に賢治を訪ねたのは〝たった1回だけ〟であった。
と結論して間違いなかろう。なんとこれで二つ目の懸案事項が解決出来てしまった。
 なお、松田甚次郎自身は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)の「宮澤先生と私」の中で
「初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである」
とか、『土に叫ぶ』ので出しで
「その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
とか、かなりの回数そこを訪問しているかのような書き方をいるが、それはおそらく彼の思い違いか、あるいは思わず筆が滑ったかのどちらかであろう。
〝たった1回だけ〟の持つ意味
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日が確定した。それも望ましい形での確定だったから私はその幸運に感謝し安堵した。それはこの事実そのものが分かったこともあるが、それ以上にこの〝たった1回だけ〟であったことにであった。そして、この〝たった1回だけ〟であったことは二つの意味で私を驚かせる。
 その一つの意味はもちろん、この〝たった1回だけ〟が松田甚次郎のその後の人生を決めたことにである。初めて会った賢治に如何に松田甚次郎は魅惑され、信服し、一方賢治は松田甚次郎を心酔させたかということであろう。そういえばこの時期賢治は頗る精神が高揚していた時期であったはず<*>だから、おそらく松田甚次郎は賢治に圧倒され、カリスマ性を感じたに違いない。ただしこちらの意味の方はその時の新庄行においてはそれほど重要なことではなく、もう一つの〝たった1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだったが、そのことについては後ほど述べたい。
<*> この直前に次のようなことがあった、あるいはあったと思われることから推測出来る。
・昭和2年3月4日に下根子桜で集まりを開き交換会や競売等も行っていたと見られる。
・昭和2年3月4日〝地人學会〟創立の協議がなされて発足、少なくとも当日6名の加入があった。
・一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕一九二七、三、四、を詠む。
 とまれこの2度目の新庄行の最大の目的、〝いつ何回ほど松田甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねていたかということを探る〟という目的は達成出来た。また、そのことにより千葉恭の下根子桜寄寓期間に関しても大きな情報を得ることが出来た。再び新庄まで来た甲斐があった。それも偏に『新庄ふるさと歴史センター』及びセンター長のお蔭であると感謝しながら新幹線に飛び乗った。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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