《創られた賢治から愛すべき賢治に》
青江舜二郎の『宮沢賢治』久し振りに青江舜二郎の『宮沢賢治』を読んでみた。どうも同書を読む時は身構えてしまう。しかし一方では、そういう青江の見方も全否定してはいけないのだと思いつつ読んでいたならば、同書の中の次の一節“『白樺』と『種蒔く人』”が気になった。
武者小路実篤、志賀直哉たちの雑誌『白樺』の創刊は、明治四十三年(一九一〇)である。それはせまくこせこせしていた、わが国の文学運動のからを破って、広い世界的なひろがりの中に中にその自由な生きがいを求めようとするもので、第一次世界大戦前後から大正文学の主流となった。それは個性の解放と人間主義の尊重を主張しながら、一方には武者小路実篤の〝新しき村〟運動、さらには有島武郎の広大な北海道の私有農地の解放という社会的なひろがりを見せるのだが、それと前後して、農民のための文学雑誌『種蒔く人』がはじめて秋田に創刊されたことを見のがしてはならない。
<『宮沢賢治 修羅に生きる』(青江舜二郎著、講談社新書)97p~より>とあったからだ。
そうそう、そういえば青江は秋田出身だった。となれば、大正10年に秋田は土崎で生まれた雑誌『種蒔く人』にまつわることに関しては他の人よりは身近に感じ、それなりに知っていたであろう、などと想像しながら次を読み進めていった。すると青江は、
少年時代からパリで育った小牧近江が、戦後フランスに起こったアンリ・パルビュスの反戦的なクラルテ(光明)運動をもって帰り、小学校の同級生であった金子洋文、今野賢三とともに新しい農民文学をそこに起こそうとする。発刊は大正十年二月。表紙にはミレーの同じ題の一人の農民の絵であった。雑誌はたちまち発売禁止になったが、それが地方にいる若いインテリ層に与えた影響は大きく、ことに東北地方はそれに刺激されて、『北方教育』と呼ばれる新しい教育が生まれることになる。
とも述べていた。あれっ、「少年時代からパリで育った小牧近江が」については少し詳しく言えば「土崎小学校卒業後、東京の暁星中学校に入学、4年で中退。明治43年16歳の時にブリュッセルで開催された第1回列国同盟会議に出席する父栄次に伴われて渡欧、パリに一人残り、国立アンリ四世校に入学」だったのではなかろうなどと頭を傾げながらも、基本的にはたしかに青江の言うとおりだろうと肯んじた。例えば「地方にいる若いインテリ層に与えた影響は大きく」に関しては、平井直衛がそうであり、名須川溢男によれば花巻でもそうであったというからである。さて私は、この小牧等のおこした農民文学の影響が及ぼされて新しい『北方教育』が生まれたということについては知らなかった。そこで手許にあった『北方教育の遺産』(日本作文の会編、百合出版)をめくってみたのだが、「北方教育」のことについては正直あまりよくわからなかった。当時盛んだった綴り方運動が秋田でも盛んであり<*1>、昭和5年にその秋田で雑誌『北方教育』が創刊され、昭和11年まで発行され続けたようだ。それ以上のことはそのうちゆっくり調べることにして、話を元に戻そう。
賢治もそのうちの一人だった
青江は次のように続けていて、このことが今回特に気になったところである。
私はそうした時代の金子洋文氏を知っているが、やはり黒光りするアルパカの上着が目立つ小学校の代用教員で、地もとの三年制工業学校の卒業生であった。いつもこどもを連れ出しては山野で教え、遊び、しきりに童謡をつくって自分で作曲してはみなに歌わせる。これらは賢治ファンには彼の独自のものと考えられがちだが、決してそうではなく、当時の東北地方には、いたる所にそうした教員が点在していたし、彼らが脚本を書いて教え子たちに劇をやらせることだって、すでに〝新しき村〟の影響で地方の農村に広がっていた。
この「やはり黒光りするアルパカの上着」の「やはり」という意味は、「賢治もやはり」という意味であれば、賢治のあだ名が「アルパカ」であったことは事実らしいが賢治もやはり「アルパカの上着」を着ていたのだろうか。もしかするとあの有名な「鹿の革ジャンパーを着たあの写真」<*2>からそう思われたのだろうか。それはさておき、私が気になったのはそんなことではなくてそれ以降の部分「いつもこどもを連れ出しては山野で教え…(略)…教え子たちに劇をやらせることだって、すでに〝新しき村〟の影響で地方の農村に広がっていた。」が、である。なぜならば、私自身もすっかり、「彼の独自のもの」とばかり今まで思っていたからである。しかし、青江は学生時代から劇作を志し、劇作家として活躍もしたということだからこの青江の記述はあながち嘘っぱちだと単純に決めつけるわけにもいかなかろう。
そういえば、かつての私は「農林132号」は賢治によって岩手県に広められたものとばかり思っていたが実はそうでなかったということを後に知ったのだったが、この件に関しても同じ構図だったということがあり得るのかもしれない。どうやら創られた賢治像は多方面にわたってあるということのようだ。賢治独自のではなくて、賢治もそのうちの一人だったということが。
<*1:註> それは秋田のみならず、やはり名須川溢男によれば、「大正時代のおわりごろより昭和のはじめにかけて、花城小学校などを中心に綴方教育がさかんであった」ということであるから、それは岩手、そして花巻でさえもということになりそうだ。
<*2:註> 最愛の愛弟子の一人柳原昌悦の次のような証言がある。
三月のはじめだったろうと思います。職員室前の廊下で掃除をしていたら、先生が通りかかって「おれ今度学校やめるよ」と言って鹿の革ジャンパーを着たあの写真を先生から、もらいました。それっきりで学校では先生の告別式のようなものも無ければ、お別れの会もありませんでした。
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著)341p~より>
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