みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

4221 通説とは異なる青江の記述内容

2014-11-02 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
はたして昭和三年の春か
 ところで、青江舜二郎は次のようなことも前掲書の一節「ひらかぬ蕾」の中で述べていた。
 生涯賢治に親近した森荘已池氏の著書『宮澤賢治と三人の女性』は、妹とし子をのぞいてははとんどの女性とはかかわりがなかったと思われいる賢治の世界に、強引に闖入しようとしたある女性と、そのひとも賢治に「いい感じ」をもち、賢治のほうは、はっきり〝思慕〟といえるところまで、その好感が高まったいま一人の女性のことをくわしく紹介している。この三人目の女性がわれわれに与える印象はまことに清冽だ。
 昭和三年の春、賢治の親友藤原嘉藤治が、例のとおり前ぶれもなしに羅須地人協会に賢治を訪ねてきた。二人の客を連れている。一人は水沢町(現水沢市)の豪農伊藤七雄で、同行の娘はその妹ちゑであった。
                             <『宮沢賢治 修羅に生きる』(青江舜二郎著、講談社新書)147pより>
 しかし私の知る限り、“そのひとも賢治に「いい感じ」をもち”ということはなかったと思うが、果たして青江は何を典拠にしてこのように言っているだろうか。またその花巻での見合いは、この記述に従えば“昭和三年の春”と青江は断定していることになるが、これもまた同様にである。その年と季節はいまだ定説とはなっていないはずだ。ちなみに『新校本年譜』(372p)には昭和3年6月12日の付記として、その典拠は示していないが、
 伊藤兄妹は以前(年月日は判明していないが羅須地人協会をはじめてからのことで、あるいはこの年の春ではないかと思われる)賢治を訪ねたことがあり…
となっている。
 なおこの書簡の存在はあまり世に知られていないからだろうか、これを典拠に取り上げている人はいないようだが、実はちゑ自身が「私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で」と書いている藤原嘉藤治宛10月29日付書簡があるので、素直に考えれば、
 伊藤兄妹が花巻を訪れたのは昭和2年の秋であり、少なくともその季節は「春」ではないし、その年は昭和3年でもない
となるのではなかろうか。

藤原嘉藤治も一緒?
 次に青江の記述で驚いたのが「賢治の親友藤原嘉藤治が」とあることにである。この記述からは藤原嘉藤治が兄妹を帯同していたということになるが、このことは私にとっては初耳だったからだ。その典拠は何なんだろうか。そもそも、青江のこの著書は昭和49年1月発行だからいわゆる「旧校本年譜」が発刊される前のことである。となれば、それ以前の「賢治年譜」は例えば『宮澤賢治全集 12』(筑摩書房、昭和43年発行)所収のそれが挙げられるが、そこにはこの件は記載されていない。ならば、森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』ということが考えられるが、同書には
 宮沢さんは七雄さんの友人だったのです。七雄さんは大島で農藝学校をつくるので、土地をしらべてくれるようにとちゑさんを伴つて、花巻に宮沢さんを訪問したのでありました。宮沢さんはそのころ、もう『羅須地人協会』をやつていました。
 『詩人』というから、白くて髪の長い人を、ちゑさんは想像していたのでした。三四十分も待つたころ、宮沢さんは使いをうけて、外から入つてきました。というのは、羅須地人協会と豊沢町のお宅の間は、半里もあるのでありませうか、迎えがいつたので、畑からやつてきた宮沢さんでした。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)116pより>
ということが書いてある程度だから、これはその典拠とはなり得ない。また青江の記述で気になるのが、伊藤兄妹が訪ねて行った先が「羅須地人協会」であったとなっていることである。もちろん現通説では訪問先は豊沢町の実家である。なお、兄妹の実家は「豪農」であると青江は記しているが、「豪家」であり大地主<*>であったかもしれないが、手広く製粉業を経営していたという水沢の実業家でもあったという。

 とまれ、この時の伊藤兄妹の花巻訪問はちゑにとってはしぶしぶの「見合い」であり、その仲立ちが菊池武雄であるといわれていることは私も知っていたが、藤原嘉藤治がこんな形で関与していたなどということは異説としても知らなかった。さて、はたして事実は如何に?

<*:註> 森嘉兵衛の「岩手県大地主調査表(昭和12年)」によれば、30町歩以上のリストの中に水沢の伊藤という人物は一人もいない。ちなみに
    地主   職業   耕地   小作人 
  宮沢直治  商業   86.6町  102人
  宮沢善治  旅館業  60.1町  100人
  宮沢商会  商業   51.4町   57人
             <『岩手史学研究 No.50』(岩手史学会)>
となって載っている。

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