もう一つ付け足すことがありました。こんどこそこのシリ-ズの最後となります。
『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』の中に次のようなことが書かれていた。
そういう意味では、賢治が大津三郎を訪ねたのは大正15年12月下旬頃だったと考えられるので、手土産としてバターを大津家に持参したということは時期的には十分あり得るであろうが、その場合賢治は一体どこでそのバターを手に入れたのだろうか。もちろん花巻から持参ということはあり得なかったであろう。なぜならこの上京の際に賢治はどでかい「セロ箱」に最高級のチェロを入れて持参したであろうから、とてもこの他にさらにバターを持参して行ったとは思えない。考えてみればもうこの時期なら列車の車中には暖房が入るということも想定されるので、なおさらに。
したがってこの際のバターは東京で買ったものと推測できる。それもわざわざ賢治がお土産として持参するのであれば、普通のものではなくて岩手に関係するものであるはず。となれば、やはり「小岩井バター」あたりだろうから機会があればその当時東京で「小岩井バター」が市販されていたかどうかを知りたいものだと思った。
と思っていたのだが善は急げということで、早速〝小岩井農場〟の「小岩井農場資料館」に電話してこのことをお訊ねしてみた。すると小岩井農場では明治時代から既に〝明治屋〟を特約店として東京でもバター販売をしていたということを即答で教えてくれた。さすが小岩井農場資料館。
それを受けて、〝明治屋〟にも同じ件で問い合わせみたたところわざわざ調べてくださり、明治35年より「小岩井バター」を一手に販売していたということを教えてくれた。とても対応が丁寧で親切であったことに感激。
よって、賢治は東京に着いてから明治屋が一手販売していた「小岩井バター」を購って、新聞紙に包んだそれを手土産に大津家を訪ねたということが十分にあり得る。
それから、よくよく考えてみれば手土産に「小岩井バター」を持って行ったということであれば、同時にチェロも持って行かねばならぬからそれはなかなか難しいこと。すると、この「小岩井バター」を持参して大津家を訪ねたのは別な機会かもしれない。
なお、賢治は当時菜食主義であったことは千葉恭のある講演会(昭和29年12月21日)後の質疑応答に依って知ることができて、千葉恭は次のように答えている。
実は宮澤賢治は少なくとも10回東京に行っていた。
ということが言えそうなので、このことに大満足してこのシリーズを終えたい。
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『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』の中に次のようなことが書かれていた。
大津三郎の次女川原日出子(元近衛管弦楽団ヴァイオリニスト)は、母つや子から聞いたことを話してくれた。
「母は賢治が来たといわれている一九二六、七年ころは、生まれたばかりの私や子供のことでたいへん忙しかったから、父の来客のことは覚えていないんですね。賢治については『新聞紙にくるんだバターをお土産に貰ったことしか覚えていない』と言っていたのね」
「母は賢治が来たといわれている一九二六、七年ころは、生まれたばかりの私や子供のことでたいへん忙しかったから、父の来客のことは覚えていないんですね。賢治については『新聞紙にくるんだバターをお土産に貰ったことしか覚えていない』と言っていたのね」
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、新潮文庫)155pより>
さて、もしこの話が事実であったとするならば、宮澤賢治のこの時の大津三郎宅訪問は寒い時期のことであったであろう(バターが可塑化するのは15℃前後からと聞くから)。そういう意味では、賢治が大津三郎を訪ねたのは大正15年12月下旬頃だったと考えられるので、手土産としてバターを大津家に持参したということは時期的には十分あり得るであろうが、その場合賢治は一体どこでそのバターを手に入れたのだろうか。もちろん花巻から持参ということはあり得なかったであろう。なぜならこの上京の際に賢治はどでかい「セロ箱」に最高級のチェロを入れて持参したであろうから、とてもこの他にさらにバターを持参して行ったとは思えない。考えてみればもうこの時期なら列車の車中には暖房が入るということも想定されるので、なおさらに。
したがってこの際のバターは東京で買ったものと推測できる。それもわざわざ賢治がお土産として持参するのであれば、普通のものではなくて岩手に関係するものであるはず。となれば、やはり「小岩井バター」あたりだろうから機会があればその当時東京で「小岩井バター」が市販されていたかどうかを知りたいものだと思った。
と思っていたのだが善は急げということで、早速〝小岩井農場〟の「小岩井農場資料館」に電話してこのことをお訊ねしてみた。すると小岩井農場では明治時代から既に〝明治屋〟を特約店として東京でもバター販売をしていたということを即答で教えてくれた。さすが小岩井農場資料館。
それを受けて、〝明治屋〟にも同じ件で問い合わせみたたところわざわざ調べてくださり、明治35年より「小岩井バター」を一手に販売していたということを教えてくれた。とても対応が丁寧で親切であったことに感激。
よって、賢治は東京に着いてから明治屋が一手販売していた「小岩井バター」を購って、新聞紙に包んだそれを手土産に大津家を訪ねたということが十分にあり得る。
それから、よくよく考えてみれば手土産に「小岩井バター」を持って行ったということであれば、同時にチェロも持って行かねばならぬからそれはなかなか難しいこと。すると、この「小岩井バター」を持参して大津家を訪ねたのは別な機会かもしれない。
なお、賢治は当時菜食主義であったことは千葉恭のある講演会(昭和29年12月21日)後の質疑応答に依って知ることができて、千葉恭は次のように答えている。
問 賢治の食生活についての考え方は。
答 賢治は菜食主義ではあつたが、バターや大豆などの脂肪蛋白は摂取していた。しかし魚や肉などは食べなかつた。
答 賢治は菜食主義ではあつたが、バターや大豆などの脂肪蛋白は摂取していた。しかし魚や肉などは食べなかつた。
<「羅須地人協会時代の賢治(二)」(『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の會))より>
というわけで、菜食主義時代でも賢治はバターだけは食していたようだ。したがって、このことからも賢治が「小岩井バター」をお土産にしたことは十分あり得るであろう。********************************************
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いずれ、このシリーズで述べてきた事柄からかなりの確度で![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_en2.gif)
実は宮澤賢治は少なくとも10回東京に行っていた。
ということが言えそうなので、このことに大満足してこのシリーズを終えたい。
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この度も拙ブログを訪問していただいておりましたことに感謝申し上げます。いつもありがとうございます。
なにしろ私は素人なものですから、直感だけで仮説を立てておりますので毎日無謀運転をしているような気がしております。今回のこのシリーズも、終えてみていま思っておりますことは早晩反例が見つかるはずだということと、そして実は正直その方がいいということです。あのような結論に達することがあろうはずがない、という不安がまとわりついているからです。
これからもご指導どうぞよろしくお願いいたします。