みちのくの山野草

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結論

2019-04-16 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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4 結論
 さて、長かった「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅もそろそろ終わりを迎える。そしてたどり着いた現時点での主な結論は以下のとおりだ。
◇仮説「♧」について
 幸い、定立した仮説「♧」、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♧
についてはさしたる反例も見つからず検証に耐え得ることができたし、一方では「○澤」及び「○柳」という強力な証言等もあることから、仮説「♧」は今後反例が見つからない限りという限定付きの「真実」となった。
◇定説「○現」について
 よっておのずから、いまは定説となっている、宮澤賢治大正15年12月2日の定説「○現」、すなわち、
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。…………「○現」
はもはや棄却せねばならないということも明らかにできた。またこれに伴って、賢治がこのようにして澤里一人に見送られて上京したのはこの日ではなくて、実はその約一年後のことであったとならざるを得ない。
 そして、宮澤賢治の大正15年12月2日についてせいぜい言えることは、柳原の証言に基づいて、
    一二月二日(木) 上京する賢治を〔柳原や〕澤里が見送った。
ということだけであろうし、この時に賢治がチェロを持って上京したという保証もない、ということになる。
◇「現賢治年譜」の長すぎる空白について
 一方、あまりにも長すぎる「現賢治年譜」における下表《表2》における「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の空白、

の真相は、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♧
からであり、この「3ヶ月弱滞京」によってこの空白期間の大部分を埋めることができるというのが辿り着いたもう一つの結論でもある(念のため再度申し添えておけば、前回明らかにしたように、この「3ヶ月弱滞京」が定説「○現」の反例となっているのである。そして、定説と雖も所詮仮説の一つに過ぎないのだから、それに対する反例が1個でもあればそれだけで棄却せねばならないということは当然のことである)。
◇「不都合な真実」「♧」について
 一方で、この「♧」という「真実」は「不都合な真実」なので「宮澤賢治年譜」から抹消してしまいたいと思った一部の人達がおり、実際それが為されたのではなかろうかという危惧があることを私は問題提起をせざるを得ない。
 言い換えれば、次のような
単行本『宮澤賢治物語』において著者以外の人物による改竄が行われたという事実
理に適わない理由をかたって『賢治随聞』が出版されたという事実
・「校本年譜」や「新校本年譜」において澤里武治の証言が恣意的に使われている<*1>という事実
をいつまでも隠し続けることはできないのではなかろうか、ということだ。
◇澤里・柳原の苦悩について
 最後に、先に〝あやかし大正15年12月2日の定説〟において、
 柳原は証言「○柳」を公にすることを憚っていたに違いない。しかし、実は柳原がそのようなことを憚る必要は全くなかったのであり、……
というようなことを述べたことに関してである。
 ここまでを振り返ってみれば、『宮澤賢治物語』が何者かによって改竄されたその煽りで、当の澤里武治、そして同級生の柳原昌悦はいわれない苦悩をさせられたに違いないであろうことが私にはひしひしと感じられる。
 以前澤里武治の実家を訪れた際に、長男の裕氏が見せてくださった新聞連載版『宮澤賢治物語』を貼ったスクラップブックと、単行本『宮澤賢治物語』を思い出しながら私は次のように推察する。
 賢治をひたすら崇敬している澤里武治のことだから、『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語』をスクラップブックに貼りながら、おそらく食い入るように読んでいたと思う。そしてそれが単行本『宮澤賢治物語』として出版された際には、いち早くそれを購入して恩師のことを思い出しながら読み始めたと思う。
 そして愕然としたに違いない。自分の証言が改竄されていたことに気付いたからだ。もし私が澤里ならば、この改竄はおそらく関登久也によってなされたと疑ってしまうような事態だから、澤里は人知れず悩んだに違いない。
 一方で、澤里の証言が正しく使われずに定着してしまった定説「○現」に対しては、柳原昌悦も苦悩したと思う。もし私が柳原ならば、それは澤里が嘘の証言をしているからだと恨みがましく思うような事態になったしまったからだ。
 かくのごとく、『宮澤賢治物語』を改竄した何者かのせいで不条理な苦悩を味わわされたであろう澤里であり、柳原である。そしてこの改竄行為を知り、さらには道理に合わないとしか私には思えない『賢治随聞』の出版を知って、関登久也も天国でさぞかし嘆息し、憤ったに違いない。この三人は誰一人として何一つ悪いところはないのににもかかわらず、理不尽な苦悩をさせられたであろうことに私は同情を禁じ得ない。
 だからもちろん、柳原は次の証言「○柳」、
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。…………○柳
を公にすることを憚る必要は全くなかったのである。関登久也が改竄した訳でもないし、澤里武治が嘘を言っていた訳でもないからである。
 さぞかし天国の賢治は、なぜ私の愛弟子澤里や柳原、そして同信の関をこれほどまでに悩ませ苦しめたのかと、改竄等に関わった人達のことを苦々しく思い、嘆き悲しんでいるに違いない。

 さてこれで、やっと長旅はゴールを迎えた。畢竟、
 現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していなかった。
のである。
 いままでの、「賢治昭和二年の上京」に関わる真実を探る長旅を振り返ってみれば、途中ですごすごと引き返すこともなく無事にここまで辿り着けたことが素直に嬉しい。その上、幾つかのことが明らかになったり、新たに見え始めたものもあったりして、今までよりは「羅須地人協会」のことがまた少し解ってきたような気がする。

<*1:投稿者註> 以前〝澤里武治自筆の新資料〟で註釈した、
    <*1:投稿者註> 澤里武治の自説とは、下掲引用文中の「ライム色」の証言に当たる。
と全く同じものとなるが、その註釈の中に下掲のような部分がある。
⑴ 
 そこで次に、〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっていて、私は今度は愕然とした。
 それはまず、本来の武治の証言は「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」だったのだが、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三か月は滞在する」の部分が綺麗さっぱりと抜け落ちていたからである。その上、この武治の証言の中で、「賢治が武治一人に見送られながらチェロを持って上京した日」が「大正15年12月2日」であったということも、「大正15年12月」であったということも、「大正15年」であったということも、「12月」であったことさえも、何一つ語られていなかったからである。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版社)27p~〉
 このような恣意的な使い方がなされているのである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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