みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1978 滞京費用捻出のため?

2011-01-30 09:00:00 | 賢治関連
       《↑澤里武治(『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館))より》

 宮澤賢治はなぜ、大正15年11月22日付案内状をわざわざ印刷して近くの人に配布してくれるように伊藤忠一に依頼したのか。
 もちろんそれは、そのことによって周知徹底を図り、なるべく多くの人がその会に参加してくれるように賢治は願ったからであろう。このことについては何ら不思議でない。
 ではなぜ多くの人に参加して欲しかったのか、それは多くの人が参加することによって「持ち寄り競売」が盛り上がり、競売が実り多いものとなって欲しかった。そしてその競売で得たお金を賢治は必要としていた、そう私は直感したのである。

 そして、閃いたのである。
 『あれっ!、この直後賢治は澤里武治一人に見送られて上京したはずだ
ということを思い出したからであり、この当時賢治は殆ど現金を売る方途はなかったからである。

 そこで、
 賢治は滞京費用捻出のために、この時期に持寄競売を開きたかった。
という仮説を立ててみたくなっていた。
 
 では次にこの仮説の検証を試みたい。
1.上京の日はいつか
 まずはそのために、堀尾『年譜宮澤賢治伝』を基にこの時期の事項を確認してみる。
十一月二十二日 この日付の案内状を夕方、近くの伊藤忠一方へ持参。近所の人にくばるようたのんだ。
十一月二十九日 午後九時より三時間、羅須地人協会講義。「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」
十二月一日 羅須地人協会定期集会。持ち寄り競売を行う。
十二月四日 上京して神田錦町三丁目一九番地上州屋に間借りした。

     <『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)より>

これだけならばこの仮説はこれでよかったかのなと多少不安になったのだが、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜で確認してみると
一二月二日(木) セロを持ち上京のため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
一二月三日(金) 着京し、神田錦町三丁目一九番地、上州屋の二階六畳に下宿を決め、勉強の手筈もととのえる。

となっている。

 ということは次のように時系列になるだろう。
11月22日 この日付の案内状を夕方伊藤忠一方へ持参。近所の人に配るよう頼んだ。
11月29日 午後9時~12時、「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」などを講義。
12月 1日 羅須地人協会定期集会。持ち寄り競売を行う。
12月 2日 セロを持ち上京。
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿。
 したがって、なんと賢治は「持ち寄り競売」を行った翌日に即上京していたということになる。なかなか良い直感だったかな。

2.滞京費用額について
 そしてこのとき上京に関しては、「沢里武治聞書」によれば
 「沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そう言ってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…
          <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)より>
ということだから、実際の滞京期間としても約一ヶ月の、もしこの聞書に従うならば少なくとも三ヶ月の滞京費用を必要としたのだから、その金額は相当の額に昇ると賢治は見積もっていたであろう。一方では、農耕自活していた賢治にとって現金収入の方途はなかったはずだから、さぞかしその費用の工面・捻出のためにあれこれ思い悩み、思案したことであろう。
 また、賢治は上京後の12月15日の父政次郎宛の書簡で200円の費用の無心をしているくらいだから、このことからもこの滞京期間に要した費用が相当の額であったことは推して知るべしだろう。

 なお、愛弟子澤里に賢治が『少なくとも三か月は滞在する』と言ったこのことが事実であったとしたならば、それはそれで大いなる別の大問題が生じると思うのだが、そのことについては近々後述してみたい。

3.滞京費用の捻出方法
 一方その当時、「おかあさん、わたしはほんとうに家を出たつもりでひとりで暮らしているのですから、もうけっしてあんなことをしないでください」(『年譜宮澤賢治伝』より)と強がりを言っている賢治のことである、何とか自力でその費用をひねり出そうと思っていたはずである。

 そこであのことを思い出した。例の蓄音機のことである。この当時賢治と寝食を共にしていた千葉恭は次のように証言している
 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。…(略)…「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。…(略)…「先生高く賣れましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差し出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。
     <『『四次元 9号』(宮澤賢治友の会、Jul-50)より>
というわけで、賢治はこの蓄音機の販売代金を上京の際の費用として使ったことになろう。
 ただし、蓄音機は折角高く売れたのに見込額だけを賢治は受け取ったのだ。それは、賢治のこだわりや潔癖性から来たものとも思うが、他の方策も考えていたからだとも推測される。それの一つがこの「持ち寄り競売」だったと私は思うのである。

 一方、協会での競売の実際がどのようなものであったかは伊藤克己が次のように証言している。
 また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。
     <「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版))より>
 この伊藤の証言の『或日…やつた事がある』からは、持ち寄り競売はそんなにしばしば行われたわけではなさそうであることが窺える。もし、しばしば行われていたのであるならば当然『ときどき…やつた事がある』という表現になっていると思うからである。
 したがって、この伊藤克己の証言はもしかすると大正15年12月1日のそれそのもののことだったのかもしれない。
 また、前述のように伊藤克己は競売の出品の多くは賢治のものだったと語っているし、「ものの本(確認中)」によると競売の際に値が上がりすぎると賢治はそれをおし留めたとも書いてあったから、実質賢治のための競売とも言えなくない気もする。

5.結論
 というわけで、この「持ち寄り競売」の行われた即翌日に上京したことに鑑みれば、この上京以前にこの競売は開きたかったこと、そしてそれは滞京費用の捻出のためだったということなどを考察してみたのだが、如何だったでしょうか。
 
 私としては
 賢治は滞京費用捻出のために、この時期に持寄競売を開きたかった。
という仮説は、以上の検証からある程度は説得力があったかな…というのが現時点での結論である。

 ちょっと強引だったかな。

 なおこの頃新聞には、花巻の隣の紫波郡、特に赤石村、不動村、紫波村などが旱魃による未曾有の旱害罹災で多くの農家が惨状の極みにあるという報道が連日なされていた頃である。

 続きの
 ”高橋光一の証言”へ移る。
 前の
 ””定期の集まり”案内状(T15/11/22付)
に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1977 川劇観劇 | トップ | 1979 上海リニアモーターカー... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治関連」カテゴリの最新記事