《創られた賢治から愛すべき賢治に》
もちろん賢治自身がそう思っていたはずは全くなかろうが、巷間では、宮澤賢治にとって高瀬露は<悪女>、伊藤ちゑは<聖女>であった。
という図式のとらえ方がされている。
しかし、露自身が<悪女>であったわけでは決してなく、それよりは<聖女>その者だった、少なくとも>聖女のごとき人であったということをこれまでの検証によって既に明らかにした(“『聖女の如き高瀬露』の目次”参照)ところである。したがって件の<露悪女伝説>は何者かによる悪意ある捏造であったと言える。
では一方のちゑについてはどうかというと、つい最近までの私はこの図式の後半もやはりおかしいと思っていた。露は<悪女>の濡れ衣を着せられた一方で、ちゑはむりやり<聖女>に祭り上がられたと思っていたからだ。
ところが、私のこの認識は間違っていて、ちゑもやはり聖女の如き人であったのだということがこの度判った。それは、恵まれない人たちに対してのちゑの献身的な生き方を、とりわけあの徳永恕が実質的に運営していた当時の『二葉保育園』にちゑは勤め、スラム保育、セツルメント活動のために自身を擲ってひたむきに取り組んでいたというこをこの度知ったからである。それは、ちゑが『二葉保育園』に勤め始めたのが関東大震災約1年後の大正13年9月、再建未だしの同園であったことを知るだけでも容易に察することができる。つい先日までの私は、ちゑは金持ちのお嬢さん育ちで「翔んでる女」であろうぐらいに思っていたがそれは私の大いなる間違いであった。
今まで誰もこのような見方をしていた人はいなかったはずだが、ちゑは単なる保育園の保母ではなくて、あの徳永恕の率いる『二葉保育園』でスラム保育に身を擲っていた素晴らしい女性であり、ちゑは森荘已池や儀府成一等によって<聖女>に祭り上げられたのではなくて、もともと
伊藤ちゑも聖女の如き人だった。
ということを私は認識できたし、
露もちゑも共に見事な生き方をした<聖女>の如き人だった。
と言えることも同時に確信した。この観点からいえば、二人が違うとすれば、露はずばりクリスチャンだったがちゑはそうではなかったという点ぐらいだろう。
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